アレクセイ・スルタノフ
1969年8月7日、チェリストの父(Faizul Sultanov)、ヴァイオリニストの母(Natalia Pogorelova)より、ウズベキスタンの首都タシケントにて生まれる。
6歳よりタシケントの音楽院にて、タマーラ・ポポヴィチ女史に師事。7歳でモーツアルトのピアノ協奏曲(K.382)を演奏しデビュー。1986年より、よりよい教育を求めてタシケントからモスクワに移動。モスクワ中央音楽学校、モスクワ音楽院でレフ・ナウモフに師事。1986年第8回チャイコフスキーコンクールに参加するも、二次予選後、右手小指の怪我のため辞退。1989年、最年少の19歳で第8回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに優勝。コンクール優勝をきっかけに、Johny CarsonのTonight Show(NBC)に出演(1989年6月21日/1990年4月25日)、またホロヴィッツのアパートにも招かれる。その後、ワルシャワでポーランド初のリサイタルを行い(1989年9月9日、ワルシャワ国立フィルハーモニーホール)、1990年5月3日、ニューヨークのカーネギーホールでリサイタルを行う。1991年9月にはクライバーンコンクールの開催地である、テキサス州ファートワースに移住。
1995年第13回ショパン国際ピアノコンクールに出場し、最高位を受賞。スルタノフはコンクール史に残る多くの名演を残し、コンクールは常にスルタノフを中心に回った。コンクール後は日本やポーランドを中心に世界中でコンサートを行い、常に聴衆を熱狂させていた。1998年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場し、聴衆からの熱い支持を受け、特別賞を受賞した。
1991年2月に初来日。その後、1996年3月、1997年3月、1999年3月と、合計4回の来日を果たしている。来日時の演奏の多くは、ライブ録音がCDで発売されたり、映像がNHKで放映されたり、と、記録を語る上で重要な位置づけとなっている。その後、2001年にも来日の予定があったが、適わなかった。
プライベートでは、1986年4月20日にモスクワ音楽院大ホールで開催されたホロヴィッツのコンサートで、当時モスクワ音楽院でチェロの学生をしており後の妻となるDace Abeleと運命的な出会いをする。1991年10月31日、二人はタラント郡裁判所(Tarrant County Courthouse)で結婚式をあげた。
2001年、硬膜下血腫にて入院、左半身麻痺になる。スルタノフ夫人との二人三脚で、厳しいリハビリメニューを行いながら、2004年右手のピアニストとして、ボランティア活動を開始する。病院施設などで電子キーボードを使ったミニコンサートを繰り返した。大きな病を抱えながらも、スルタノフが懸命に右手でメロディーを奏でる姿は、重症患者たちに"ネヴァー・ギブ・アップ"のメッセージを与え、大きく勇気付けた。2004年11月9日アメリカ合衆国国籍を取得。記念式典では、妻Daceとの連弾で右手を使って "America the beautiful" を演奏した。2005年6月30日 フォートワースの自宅にて逝去。
レパートリ
当時紹介されていたレパートリ
コンクール記録
1986年チャイコフスキー国際コンクール
怪我のため二次予選後辞退
詳細は
こちら
1989年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール
優勝
詳細は
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1995年ショパン国際ピアノコンクール
最高位(一位なしの二位)
詳細は
こちら
1998年チャイコフスキー国際コンクール
特別賞受賞(二次予選)
詳細は
こちら
1999年エリザベート王妃国際コンクール
予選
詳細は
こちら
来日記録
- 1991年2月(詳細はこちら)
- 1996年3月(詳細はこちら)
- 1997年3月(詳細はこちら)
- 1999年3月(詳細はこちら)
結局叶いはしませんでしたが、
2001年9月24日~10月10日にも来日の予定がありました。
2001年9月29日は、横浜でチャイコフスキーのコンチェルトをやる予定がありました。
また、その他のコンサート記録は、
こちらのページに詳しく記録があります。
人物像
趣味
テコンドー、映画、ジャズ・ロック・オペラを含む音楽全般、ゴルフ、バンジージャンプ、テレビゲームなど。
逝去時の家族構成
妻(Dace:チェロ奏者)、猫5匹、イグアナ1匹(1999年5月時点)
父(Faizul:チェロ奏者)、母(Natalia:ヴァイオリン奏者)、弟(Sergei:7つ下、ピアニスト/ピアノ教師)
好きな食べ物
ピザ、寿司、シャシリク、ウズベキスタン/ロシア/ラトビア料理
好きな作曲家
ショパン、モーツアルト
使用ピアノ
日本公演や、参加したコンクールでは、スタインウェイを使用
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