Message from Dr.Kramer

オフィシャルホームページの、「Memories」コーナーに投稿された、クレイマー医師のメッセージの翻訳です。
日本語翻訳:鳴海和子様によるご提供

クレイマー医師よりメッセージ

2005年7月

1.最初にアレクセイに会ったのは1995年、フォートワースのこの病院だった。もしそれを脳卒中と言えるとしたなら、彼は時々脳卒中に襲われた。
部屋に入って行きながら「今朝はどうですか」と聞くと、彼は「僕は大丈夫だけれど、世界中がひっくり返ったよ」と言った。
そのとき彼のことをよく知らなかったので、少し大法螺ふきだなという印象を持った。しかしすぐにそれが少しも大法螺でも何でもなかったことに気づいた。病院の交換台には世界中から彼の健康状態を心配する電話が殺到した。
デースは私を脇に引っ張っていって、彼は音楽上の業績で脚光を浴びていると説明した。そして私に2枚のCDをくれた。デースは手品師が子供の耳のところでコインを出して見せるように、どこに持っていたのか突然それを出してくれた。彼女は彼の製作CDをいつもこんな風に持っているのだ。デース、君は知っているよね。
彼女がくれたのはショパンとラフマニノフだった。そしてアレクセイは署名と献辞を書いてくれた。「親愛なるクレイマー先生、僕を完全に理解しようとしてくれてありがとう」ありがたいことに彼は完全に彼を理解してくれと私に負担をかけなかった。ただ理解しようとすることだけ望んだわけだ。
さて、今までも多くの時間音楽を聴いたように、その夜私はその2枚のCDを聴いた。最初の作品―ショパンのスケルツォ1番ロ短調を聞いてすぐ、とても並外れて優れた誰かが私を掴まえたとわかった。翌日彼の音楽に対する賞賛の言葉を伝えた。そして療法として彼がするだろう簡単な指の練習を実演して見せた。彼はたちまち生き生きとして、「それはルービンシュタインの練習曲ですね。」と識別して見せた。彼はアルトゥール・ルービンシュタインの同じ練習曲を指先の俊敏さを高めるため用いていたのだ。
それから後のことだが、彼はすばらしい熱意でリハビリに専念した。彼の人生で最も偉大な挑戦者としてそれを行った。・・・Con brio(熱意)・・・・そして彼は度々こう言った。「with eggs on top! 頂点にいることの脆さ!」 まもなく彼は右手を使えるまで十分に回復した。そして今までしていたとおり炎のように燃え輝いて再び演奏を始めた。たぶん以前よりももっと・・。
死の淵を一瞬経験したことがこの結果を生んだのだろう。スルタノフが私たち家族の欠くことのできない人になるのに長い時間はかからなかった。これら全ての年月の後でも、アレクセイ、私はまだ君を完全に理解していない。
しかし、理解しようとし続けるだろう。

2. Dr.ズルタノフはどうやって飛行機を停めたか。
 1991年、初めてショパンのCDをドイツでレコーディングして飛行機で帰国する途中アレクセイは虫垂炎になってしまった。
盲腸を切除してから5年後の1996年、ヨーロッパのコンサートツアーへ行く 飛行機の中で8歳の女の子がおなかが痛いと訴え始めた。乗務員は乗客の中に医者がいないかと見てまわった。誰も名乗り出るものがいなかったので、アレクセイは、彼がいつも身近に持ち歩いている血圧計の器具を取り上げて通路を歩いて行き、自分はDr.ズルタノフだと自己紹介した。(乗務員はその後Dr.ズルタノフの名で乗客名簿と照合して、彼の名前に混乱をきたしただろう。)
さてDr.ズルタノフは子供を調べ、彼の患者としての経験から、熱があって右の下腹部の4分の1のところに感じる痛みは虫垂炎であると自信を持って診断を下した。そして直ちに飛行機を着陸させるように乗務員に要請した。「不可能です。」と彼女は言った。しかしスルタノフの辞書に「不可能」と言う字はなかった。
「私達はこの子を救わなければならない」と彼はきっぱり言った。乗務員はとうとう彼を機長と話させた。そして彼はなんとかトロントに飛行機を着陸させるよう機長を説き伏せた。よくあることだがスルタノフの直感は正しかった。子供は虫垂炎で破裂寸前だった。スルタノフは死ぬ可能性もある腹膜炎を起こすのを、危ういところで防いだのだった。しかしながらDr.ズルタノフは誰にも請求書を送らなかったと私は思う。

3.最初の脳卒中から完全に回復したあとで、彼は栄えあるダラス交響楽団の退職者たちのリサイタルでピアノを弾かないかと招待された。リサイタルはある後援者の邸宅で開かれることになっていた。リサイタルが開かれる居間には古い年代物のステインウェイのピアノが据えられていた。たぶん1920年ごろのものだろう。
前もってピアノは最高の状態だと保障されていたにも関わらず、アレクセイがいつも通りにウォーミングアップを開始した途端、すぐにそれが悲しいほどの音程を出すしろものだとわかった。しかし持ち主はそのことに気づいていない様子だった。そして誇らしげにピアノを指差しながら言った。
「ジョージ・ガーシュイン、君知ってるね。ジョージ・ガーシュインがその昔このピアノで演奏したんだよ。」それから少しえばった調子で聞いた。「勿論、ジョージ・ガーシュインが誰だか知っているだろう?」
アレクセイはラプソディー・イン・ブルーの楽節をさっと反復演奏しながら、真面目くさった様子で言った。「ええ知っていますよ。しかしこのピアノ、彼が演奏して以来調律されたことがありますか?」
その日、彼はガーシュインやオスカー・レヴァンの魂と通じていたのだろう。ともあれアレクセイはその古いピアノをだましだまし、人々を魅了する演奏をおこなった。

4.採りたてのきのこ。アレクセイはそれが大好きだった。1998年私たち夫婦は人生で最高のときを過ごした。休暇をモスクワやセント・ペテルブルグでスルタノフの家族と過ごしたり、ラトビアでデースの家族と過ごしたりした。
私達はSkujiasに旅行して、リガ郊外にあるアベル家の素敵な農場で一日を過ごした。農家の周りを高い森が囲んでいた。アレクセイは*完璧なきのこを見つけ出す伝説に残るような特技を持っていた。そこでデースのお母さんの ベニータが田舎風の台所で食事の準備のため素足で小走りに動き回ったり、 お父さんのジャニス氏に所有地をぐるっと回って見せてもらったりしている間、アレクセイはきのこ狩りに行く時の特別お気に入りの麦藁帽子をかぶり、よく切れるポケットナイフと小さいバケツを持って深い森の中に姿を消した。
夕方になって彼はバケツいっぱいのきのこを持って帰ってきた。それは食べたことがないようなとても美味しいきのこだった。個人的な考えだけれど、彼はピアノの練習よりきのこ狩りのほうが好きだったと思うよ。
(*彼は英語でこう言う:perfectly mushroom:極上のとか最高級のとかに訳そうと思いましたが完璧なきのこの言葉のほうがその場の雰囲気にあっているように思ってこう訳しました。スルタノフの英語の雰囲気と言うのでしょうか、そういうものがあるような気がして・・・他にも I'm OK とか)

5.ラトビアは、知っているかもしれないが琥珀で有名だ。アレクセイとデースはある日、私たちを野外民族博物館に連れって行ってくれた。ちょうど公園の  外側に、見ごとな精選品の琥珀がおいてあるギフトショップがあった。しばらく見て回った後、少しばかりの買い物をして外に出た。
スルタノフは少し遅れて私たちに追いついた。そして何食わぬ顔でこの美しい公園を歩きながら、デースに「あの茂みの下に面白いきのこを見たんだ。探して僕に採ってきてくれない」と頼んだ。デースは素直に言うことを聞いて真面目に四つんばいになって木の茂みの中を這いつくばって行った。
と同時に大きな甲高い驚きの声が聞こえて彼女はすばらしい琥珀のネックレスを持って出てきた。その夜、デースは彼女のきのこを首につけていた。

6.私達は皆、彼と一緒にもっと長くいられたらと願う。もっともっと長くと・・・。しかし「神様、感謝します」。私達がアレクセイのたくさんの素晴らしい思い出を持つことができたことを・・・。全てのくすくす笑いや抱腹絶倒、腕白小僧のような悪戯の数々、彼の暖かさと気前よさ、彼のきらめく知性、  愛と友情、そして勿論、音楽・・・栄光に輝く音楽。たとえ本当に世界がひっくり返ろうとも、「彼は大丈夫:He's OK」と私たちにわからせるだろう。
彼はいつもデースと共にいる・・・私たちと共にいる・・・どこか近くの森に幾度か特別な旅行をして・・・彼は帽子をかぶり・・・小さいバケツを持って完璧なきのこを探しに行く。

(*この素敵なエピソードを訳せたことを神に感謝します。「Thanks God!」) Dr.エド・クレイマーありがとう。みんな彼を理解しようとし続けるでしょう!


トップページに戻る
ページのトップへ戻る