Message from Evgeny Kissin

オフィシャルホームページの、「Memories」コーナーに投稿された、エフゲニー・キーシンのメッセージ(ロシア語)の翻訳です。
日本語翻訳:日本アレクセイ・スルタノフ支援会会員知人様よりご提供

エフゲニー・キーシンよりメッセージ

2006年1月

 我々には、この世界で解放された毎日、毎秒が待っていて、それを大切にする必要があることを本当に誰も知らないのだ。90年代中頃、私とアリョーシャ(アレクセイ)・スルタノフは30代になっていなかった。

 そして私がフォートワースを訪れたとき、私たちは遊び、騒ぎ、人生を楽しんだ・・・10年後に彼の追憶について書くことになることを想像できただろうか・・・

 まず始めに、アリョーシャの演奏を聴くずっと前に私は彼のことを耳にしていた。そのとき私たちは二人とも子供であり、アレクセイ・スルタノフの名前は、かつてのソ連の音楽家グループでどんどん有名になっていった。私の記憶の中には「途方もない表現力を持った非凡なピアニスト」という思いがある。

 さらにモスクワの第8回チャイコフスキー国際コンクール(1986年)で称号受賞者のコンクールを受けなかったにもかかわらず、アリョーシャは英雄になったのだ。彼の第1段階の演奏までたった数日しか残されていないリハーサル時、グランドピアノの蓋が彼の指の上に落ちた。その結果骨折した。過酷なショックにもかかわらず、スルタノフはコンクールに参加するという噂が直後に徐々に広まった。私の先生であるアンナ・パヴロヴナ・カントールが一連のリハーサル後に(コンクールが開催される)モスクワ音楽院の大ホール近くでアリョーシャにばったり会った。「あなた演奏するつもりなの?」彼は答えた「演奏しなければならないのです」

 演奏の日はやってきた。アリョーシャの1次予選のプログラムの最後はベートーヴェンの「アパッショナータ(熱情)」第2,3楽章だった。曲が終る度に、彼は舞台から降り、麻酔注射を打ち、再び急いだ情熱的な足取りで戻り、グランドピアノの前に座り、即座に演奏を始めた―それは絶大な表現力、エネルギーの塊、そして全てを打ち砕く情熱のスケールの大きいピアノ演奏であり、うわべだけの音色ではなかった。

 「コムソモーリスカヤ・プラウダ」誌上では「『アパッショナータ』は消えていない」と題された記事が掲載され、そこから私たちはベートーヴェンの傑作の第2,3楽章では麻酔の影響に見舞われることが無かったこと、つまり「アリョーシャは最後の楽章を生き生きとした感覚的な腕前で演奏した」ことを知った。

 それはアレクセイ・スルタノフの運命の第1の衝撃であった―そして彼はベートーヴェンのように「喉元を押さえ」そして乗り越えた。2年が過ぎ―フォートワースではヴァン・クライバーン国際コンクールがあり、スルタノフに世界的高名をもたらした。この後まもなく、私たちには2度目の出会いがあった。私の友達が、彼とアリョーシャがその時学んでいたモスクワ音楽院の寮に私を連れてきたのだ。

 ひとつの部屋に仲間が集まり、しばらくするとドアが開いてアリョーシャが入ってきた。私を見ると、すぐに(アリョーシャは調子を合わせることが全くできない―それは愛すべき、知られていた彼を裏付けることができる)うれしそうに「ジェーニカ(エフゲニー)!キミのディスク(CD)は、ニューヨークにもフォートワースにもたくさんあるんだね!」(そのとき私はまだアメリカで演奏をしていなかったが、既にCDは発売していた)と叫び、コンクールについて自分を嘲る機会(総じて彼に固有のことであった―媚からきたものではなく、それゆえ彼なのであった)を逃すことなく、生き生きと、熱く巧みに話し始めた。彼の話として、近代作曲家(アリョーシャを彼特有の誠実さについて次の言葉で特徴付けられる。それはこの作品の著者の高い状態である)の規定作品を演奏するときに、楽譜を忘れ「揺り動かして」上行するパッセージを演奏し、その後ソ連の審査員のメンバーに「なんとオリジナルな解釈だ!」と言われたことを覚えている。

 何年か後に、アメリカにいる―既に当たり前の居住地だが―私たち二人に運命は投げかけられた。私たちは互いに数千マイル離れた巨大な都市に住んでいた(アリョーシャはフォートワース、私はニューヨーク)それで私がフォートワースで一度演奏会を行なってから、毎年1度は会った。演奏会の前に楽屋に入ると、成功を祈ってアリョーシャから花束が届けられ(私たちの音楽仲間でそのような行動をする者はほとんどいないことを認めよう)そして演奏会後には一部の家での歓迎パーティーでは、彼は社会の良識ある人間であり、再び自分の話ですべての出席者を楽しませた。そして基本は―楽しさ、笑い声、善良さ、誠実さ、現在の人生の激動そして人生を愛することである。たった数年後、まさかアリョーシャを麻痺が打ち砕き、もう決して立ち上がることは無いと想像できたであろうか。

 アリョーシャが床に臥せっていたとき、人々はこういった。「なんて、かわいそうな人なのか―そしてなんと非凡な夫を持ったのか!なんと献身的な愛すべき妻なのだ」と。今、アリョーシャはいないが、ダーツェはアリョーシャの記憶を永遠のものとすることに人生を捧げている。 この女性の並外れた情の深い人のよさ、敏感さについては自ら確信する機会があった。

 最後にフォートワースを訪れた(2003年4月)時、インフルエンザによる高熱から病床につき、予定していた演奏会で演奏をすることができなかった。私はスルタノフ夫妻の電話番号を知っていたのでアリョーシャに電話した。私とダーツェは全く知り合いではなかったが、私が病気だと知ると、手が麻痺していて常に看病が必要であるにもかかわらず、アリョーシャはすぐ薬効のある飲み物をホテルに送ってくれた・・・

 不幸な運命は、それでも、まさに最盛期に致命的な一撃を加えた―しかし権力の世界においてではなく、彼の音楽、この非凡な人間に関する記憶、そして彼を知る人の愛を害したのである。  キーシン


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