Last updated:Thursday, 15-Nov-2007 07:16:43 JST

Early Sunday

Ft. Worth Star Telegram紙の2001年5月13日の記事の翻訳です。翻訳者は、素人のため、一部誤訳がある可能性がありますがご了承下さい。誤訳と思われる部分があれば、ご連絡頂けると幸いです。英文のオリジナル記事は、こちらで確認することが可能です。 このページは、スルタノフのホームページで掲載されている、ニュース記事の翻訳を紹介しております。翻訳者は、素人のため、一部誤訳がある可能性がありますがご了承下さい。誤訳と思われる部分があれば、ご連絡頂けると幸いです。英文のオリジナル記事は、こちらで確認することが可能です。

The keys to life:命の鍵

2001年5月13日(日)
By Mary Rogers

命の鍵:脳卒中により、89年クライバーンコンクールの金メダリスト アレクセイ・スルタノフは演奏が出来なくなったが、彼や彼の家族の魂は健在である。

彼は目を閉じ、重そうに枕によりかかっている。こめかみの左上の髪が伸びている。外科医は、彼が数年伸ばし続けてきた太くて濃いみつあみをそのままにしておいたため、依然として長い髪は彼の肩まである。彼の右手は、架空の鍵盤の上を休むことなく動いている。おそらく、リストのメフィストワルツや、モーツアルトのソナタか、もしくはショパンやベートーベンの作品を弾いているのだろう。ひょっとすると彼自身の作品か、ジャズか、はたまた、彼の編曲した"椿姫"かもしれない。左手は固く握り締められたままだ。

静かな音楽が大気中のエーテルを上りつめ、天国を思い出させる。彼はここにおり、逃げ出したい気持ちでいっぱいの囚人なのだ。

アレクセイ・スルタノフは魔術師である、と言う人もいる。彼は、聴衆に魔法をかけ、この上ない狂気という未知の世界へ連れていってくれたり、もしくは絵の具のようにドロドロとした憂鬱なところへ、飛び込ませたりする。批評家の中には、彼は反逆児で、その音楽的解釈は異端であり、偉大というにはあまりに下品で未熟であるという人もいる。

確かに、アレクセイは恐れを知らぬ演奏家で、感情をかき立てるピアニストである。彼を崇拝する、大勢の熱狂的な支持者が世界中にいるが、彼のキャリアも1989年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝しなければ違ったものとなっただろう。

彼は当時19歳で、内気な学生と、大胆な演奏家を混ぜ合わせたようであった。5月のテキサスでは暑いだろうが、ダークスーツの下に白いタートルネックを着ていて、靴下は白だった。彼の濃い髪はぼさぼさで肩まで伸びており、彼の目が隠れるほどだった。口には、少年っぽい髭をはやし、それが彼を余計若くみせていた。しかし、彼の鍵盤の扱いには聴衆は息をのんだ。

彼の指が鍵盤を飛び交った。目には汗がしたたり、さらに頬を滑り落ちた。彼の髪は湿ってきた。音楽は轟音となったり、またささやくようになったり、うなるような音をたてたりと続いた。彼はその音にうっとりしたかのごとく、目を閉じた。

ピアノの弦が切れたが、アレクセイは弾き続けた。ピアノにもたれるかのように近づき、恋人のごとく鍵盤をやさしくなで、ピアノもそれにこたえた。

音楽が終わると、彼は聴衆にお辞儀をし、それから一歩後ずさりして、共演者とスポットライトを分かち合うように、ピアノを指差した。そして、おそらく、その時からアレクセイは優勝すると思われていたのだろう。

現在31歳のアレクセイは、国際的な演奏家で、音楽の中心都市と言われる、ニューヨークやロンドン、東京、アムステルダム、ウィーンやソウルで何百もの公演をこなしてきた。彼はまた、2ヶ月前生死をさまよった脳卒中を抱え、人生と芸術を再生することに必死になっている。

彼は子供のころから、ピアノ、そしてまたステージとともにある運命にあった。しかし、2月26日、彼の人生は予期せぬ険しい転機を迎えた。

硬膜下血腫。血管外部の血の塊のようなもの、が、彼の人生をほとんど奪いかけた。医者にもその原因は定かでないが、今回が初めてでないのは確かだ。5年前にもアレクセイはちょっとした卒中を起こしたことがあり、公演スケジュールに影響のあるものではなかったが、CTスキャンにははっきりと現れていた。

今回、2月に起きた出血は前回とは違う。今回は死に至る危険もあった。

フォートワースの、テキサス整骨医療センターの外科医は、脳から血栓を取り除いたが、その夜、別の出血が発生し、これによってさらに厳しい状態になった。再度医者は、彼を死の淵から救うため必死になった。

手術室の外では、アレクセイの妻、32歳のDace Sultanovが歩き回りながら待っていた。彼女はおそらく祈り、また泣き、しかし彼が生きていることを強く信じていただろう。

「私の半分は彼なんです」と彼女は言った。「体を半分にすることなんで出来ないでしょう?アレクセイは、今やそういう人なんです。私たちは戦います。愛し合いながら。病気なんて関係ありません。私たちは一緒でなきゃダメなんです」

彼女は、アレクセイの運命が変わるだなんて、信じない、信じられないのだろう。

彼女にとって、アレクセイは音楽そのものである。

ダラスにあるBaylor Instituteリハビリ施設の患者となったアレクセイは、歩き方や着方、歯の磨き方、読み方などを一生懸命取り戻そうとしている。そして、彼は自分のファンに自分の状態を知ってもらいたいと思っている。

「何もかも教えてあげてほしい」彼は、かすかに聞こえる声で、喉を痛めながら囁いた。「いいこと、悪いこと、すべて。ぼくは、逃げも隠れもしないよ。」

彼の医師である、Baylorの脳外傷医長でもある、Mary Carlileは、注意が必要だが楽観的だろう、と、彼の回復についてを述べる。彼女は、彼の左半身が非常に弱っており、視野が悪いことを指摘した。実際、彼女は左目が見えなくなるかもしれないと思っている。

こうした状態にもかかわらず、アレクセイはいまだにロシア語と英語の両方を話し、また理解する。彼は音楽をききながら、時々電子キーボードを右手だけで演奏する。「彼は習得能力があり、右手だけでも美しい演奏をする」と、Carlileは述べた。

現在、日々の生活にはリズムがある。Daceは、看護師にチョコレートを、庭には花を、またアレクセイにはファンからのたくさんのメールを持って、毎朝早くに来る。壁は世界中のファンからの、メールやお見舞いのカードで埋め尽くされている。朝食が片付くと、彼は療法を受けはじめる。言語療法、理学療法、作業療法に、プールを使った水治療法がある。

毎日モスクワから一通の手紙が届く。今では、当たり前のようなこととなった。アレクセイの母親、Natalia Sultanovは、紙を手書きの文字でいっぱいにする。どのページにも、キリル文字が少し入っている。彼女は文字の横にいくつかの単語を書いた。毎日もっと届くことがある。これらは、電子メールと一緒に壁にテープで止められた。

「AはアレクセイのA。この上なく愛する息子。私たちはあなたの回復を祈り続けています。Bは弟(brother)、セルゲイのB。愛する息子。あなたの健康と幸せに神のご祝福がありますように。DはDaceのD。アレクセイの救世主となる天使。」と、彼女はつづる。

彼女は、Daceが彼らの生活の縁の下の力持ちであることを、あえて言ったりしない。そんな必要はないのだ。

Dace Sultanovは、バルト海特有の、見事な金髪と、青い目をしている。彼女の淡い肌はすらりとしていて、彼女の微笑は深く、しわがれ声で、少女の名残のある声をしている。

彼女は、真の信者である。理解を超えたことに大してさえ、信じ続ける最高の精神を持っている。彼女はアレクセイは必ず再び演奏出来るようになるという。アレクセイ自身のためでも、彼女のためでもない。聴衆のためにである。

アレクセイの父親、Faizul Sultanovは、彼の息子のために、数週間前、ロシアから駆けつけた。ロシア政府は家族二人が同時に国を去ることを禁止ししているとDaceは説明する。Faizulは数週間後に家に帰り、続いてアレクセイの母親が来るのだ。

その間、Faizulは、満員の病室の隅の簡易ベッドで眠り、24時間ずっとアレクセイのそばにいる。毎日、彼はアレクセイをベッドから起し、息子の部屋の移動を手伝ったりする。最初に、右足を。それから左足を。朝には、彼らはよく一緒に歌う。時には音階を。時には、ロシアの子供の歌を。

Faizulは、息子の励まし方を実によくわかっている。アレクセイの両親は、幼い頃より見てきた彼の音楽の天性を、再度ひきだそうとした。アレクセイがわずか6歳のとき、彼はタシケントで、タマラ・ポポヴィッチ女氏によるレッスンを開始した。この師匠は今なおも、アレクセイの最も信頼出来るアドバイザーの一人である。

最近、彼女はニューヨークに来てアレクセイの病気を知り、彼の元へ飛んできた。「アレクセイは一人しかいないんです」と彼女は通訳を介して言ったが、アレクセイには聞こえなかったようだ。

アレクセイが少年だった頃、彼女は、モスクワ音楽院で年に数回レッスンが受けれるようにしてくれた。アレクセイは、両親のどちらかに連れて行かれ、ウズベキスタンから電車で通った。これは莫大な出費であり犠牲も多かったが、その甲斐あって、アレクセイが10代のときにモスクワ音楽院に入学することが出来た。

Faizulも音楽家で、チェリストである。彼は、芸術家の人生、人生を音楽に賭けるデリケートな生き方、をよく理解している。

彼はうなずく。そうだ、そうだ。アレクセイは、また演奏出来るようになるだろう。

彼とDaceは、ベッドにいるこの男を励ましたいと思っている。しかし、そこには、不可解で、強力な何かがある。一語では言い表せないが、音叉から出る低い音のように、部屋の中で揺れている。アレクセイはただ帰ってくるだけではなく、大成功をもたらすのではないかと、Daceは信じている。

アレクセイがクライバーンコンクールで優勝した夜、Daceはそこにいなかった。彼女は、アレクセイが席から飛び上がり、勝利の喜びのあまりこぶしを高々と突き出した姿を目にしていない。彼女は、ステージで飛びはね、銀色のカップを空に掲げた彼を見ていない。そのカップにはワインをなみなみと注いであったべきだ、なんて冗談を彼が後日口にしたことも、きいていない。

クライバーンコンクールの後、アレクセイが目眩がするような200のコンサートのツアーを開始し、それが2年も続いていたとき、Daceはまだロシアにいた。各種のコンサートや、トークショー、ディナーパーティーなどがあった。人当たりがよく、好奇心旺盛な点もあり、アレクセイの人付き合いは、社会的信頼に欠けるところもあった。しかし、ファンは彼に引き込まれ、若くて魅力的、かつ、情熱的でありながらも市場向けである彼を、類をみない才能だと賞賛する声もあがった。

著名人も、彼に近づきたがった。デヴィッド・レターマンのショーに顔を出したその夜、アレクセイはかのヴィラディミール・ホロヴィッツから、個人的な招待を受けた。それは、この若いロシア人の人生にとって、記念すべきイベントとなった。彼らは、ホロヴィッツのニューヨークのアパートで会った。

彼らはロシア語で会話し、一緒にピアノを弾いた。アレクセイは、モスクワのボリジョイ劇場で行われたホロヴィッツのコンサートでDaceと出会った話をした。

Daceは当時15歳の少女で、モスクワ音楽院でチェロを学んでいた。その午後、彼女はアレクセイに会ったのである。それは、運命的で非常にロマンティックな出会いだった。

彼女は、当時の記憶を微笑みながら話す。名ピアニスト、ホロヴィッツはボリジョイ劇場で演奏し、15人くらいの音楽学生は、この偉大なピアニストの演奏をなんとか見れないかと考えた。チケットはもう残っておらず、この小さな集団は、隣のビルの屋根に上り、次々と劇場の屋根に飛び移った。

「その日は雨で、私は運もよければ悪かったのよ」とDaceは言う。「足をすべらせたと思ったら、誰かが私をつかんでくれた。その人は私が昔から好きな人で、私は向こうを知っていたけれど、向こうは私を知らない。アレクセイが言うには、『ぼくは彼女を掴んで、その子を見た。そしたら、悪くなくってね、それで助けてあげたのさ。』とのこと」

学生たちは、劇場の屋根裏にのぼり、ボリジョイのステージを、豪華なシャンデリア越しに見下ろした。「もう、大変綺麗だったし、クリスタルの向こうにホロヴィッツの手が動いているのが見えるのよ」と、Daceは、ピアノを弾くようなジェスチャーを交えて言う。彼女は目を閉じ、ちょっと体を揺らした。瞬きをして、微笑んで、続けた。「この時、私は初めてアレクセイと話したのよ。初めて、私たちは会ったの。驚くべきことでしょう。」

その時から、この二人は一緒になることを運命付けられていたのではないかと思える。後日明らかになるが、果たしてこれが、よかったのか、悪かったのか。

クライバーンに優勝した最初の年、もしアレクセイが忙しかったら、もっと寂しいことになっていたでしょう。と、クライバーン財団に勤めていて、アレクセイの契約も担当していた、Denise Mullinsは言う。でも、これは最近共感できるようになったことなんですよ、と彼女も認める。彼らの関係は、1990年、アレクセイがモスクワを離れ、重要なリンツ・フェスティバルで演奏するのを断った点から、ぎくしゃくしてきた。

「これは、大きな意味のあるフェスティバルだったんです。」Mullinsは言う。「ヨーロッパからマネージャーが来ることになっていて、何人もの指揮者が彼を聴きにくることになっていました。テレビ放映も決まっていたんです。でも、彼はモスクワを出なかった。ガールフレンドのDaceもアメリカに連れて行きたかったけれど、彼女のビザがモスクワに届かなかったんです。彼は、Daceを残しては出発出来ないといいました。」

「私はものすごく怒ったし、リンツの人も怒りました。私たちはこの時、彼らが結婚する予定だなんて、知らなかったんです。私たちは、単なる旅行程度にしか思ってなかったんです。」

「ともあれ、彼は彼女を置いて出かけることはせず、彼女を大事にしたために、非常に重要な契約の機会を失いました。」

「今思えば、彼の意思を尊重すべきでした。彼の優先事項が私と違ったんです。彼らは本当にお互いを思っていたし、Daceも彼に非常によく尽くしていた。彼も、彼女が来れば本当によかったんでしょう。彼女は本当に大きな影響を与えていたんです。」

その後すぐに、Daceもビザをもった旅行客としてフォートワースに到着し、コンクールの間アレクセイをホストファミリーとして支えたJonとSusanのウィルコックス邸にきた。1989年、ウィルコックス夫妻は、当初コンペティターを3週間預かるつもりだった。結局、アレクセイがクライバーン財団主催によるコンサートツアーをしている間の2年間、預かることになった。それが終わる頃には、ウィルコックス夫妻は、アレクセイを、もはや彼らの息子も同然のように考えていた。

コンサートが終わったときに彼が帰ってくるのは、ウィルコックス邸であった。スーザンは、彼女の人生の中でも、アレクセイは、「非常に寛大な人」であるという。彼を知る誰もが繰り返す言葉だ。「彼は、自分のものを何でも人にあげちゃうんです。彼が好きなものを誰かが気に入れば、彼はそれをくれるんです」というのは、2月に脳卒中になったときに最初にスルタノフを見てくれた、親友のEdward Kramer医師である。

「アレクセイがクライバーンコンクールを優勝したとき、彼は全く英語が話せませんでした。彼は、1ドル以上をポケットに入れていたこともありませんでした。彼は両替をするといった簡単なことすら、どうすればよいかわからなかったんです。彼は一人じゃ出歩けなかったのに、それが突然コンサートだらけになってしまいました。私たちは、彼を助け続けないといけないと、そのとき思ったんです」と、Susanは言う。

1991年、ビザが切れる直前、アレクセイとDaceは、Tarrent County Courthouseで、治安判事の手で結婚した。 自然の流れとして、彼らはまずウィルコックス邸にお世話になったが、数ヵ月後彼らはアレクセイがコンサートで稼いだ貯金を使って、市の南西に質素な自宅を購入した。彼らは、猫やイグアナと一緒に住んでいる。

赤いバラが庭に咲いている。Daceはアレクセイが、この窮屈な病室の外の世界を思い出せるように、と花束を持ってくる。彼女は、彼のおでこにキスをし、愛しているとささやくのである。彼に、飛ぶとはどういうことかを思い出させ、彼女には彼に生えている翼がまだ見えるといいながら。


スルタノフのページに戻る