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Alexei Sultanov: Cliburn winner struggled with paralysis

Dallas Morning News紙 2005年7月1日版の翻訳です。

アレクセイスルタノフ:麻痺と闘ったクライバーン優勝者

2005年7月1日(金)中部夏時間 午後11:09
スコット・キャントリル記者(ダラスモーニングニュース社)
翻訳:ペンネームペンギンさんによる、無償提供

アレクセイスルタノフ(1989年のバンクライバーン国際ピアノコンクールで優勝した モップ頭の小柄なピアニスト)は木曜日の朝フォートワースの自宅で亡くなった。彼は35歳で、2001年の一連の脳卒中のあと重度の身体障害者になった。

スルタノフのかかりつけの医師エド・クレーマーは「ピアニストは睡眠中に死んだ。恐らく心臓発作だろう。」「卒中を起こした場合5年生き延びられる可能性はおよそ50%だろう。」「しかもスルタノフのように脳の何ヶ所かの領域に影響を与えた複雑な脳卒中を起こす人は滅多にいない。」と語った。

スルタノフ氏は1969年ソビエト連邦の一部のウズベキスタンの首都タシケントに生まれた。チェロ奏者とバイオリンニストの息子で、モスクワ音楽院で高名なレフ・ナウモフ教授に学んだ。

巨大な音と同じように巨大なテクニックで、たいまつの火のように輝く演奏者はクライバーンに集った他のピアニストたちの好評を粉々に打ち砕いた。

「彼の並外れたテクニックは明白でした。」とヴァン・クライバーン財団の会長リチャード・ロジンスキーは言った。「サンクトペテルブルグの選考会で彼が弾いたリストのメフィストワルツを私は決して忘れないでしょう。そこにいた共に選ばれた仲間たちは皆うなだれていました。」

クライバーンコンクールのあと、財団は2シーズン彼のマネージメントをした。スルタノフ氏は有名なオーケストラと競演したり、またTeldec社でレコーディングを行ったりした。
しかし始めから彼は激賞と容赦ない批判両方を引き寄せ、論争を巻き起こす演奏者だった。そして彼は若すぎ、未成熟のまま大成功に放り込まれたという感じが大きくなっていた。

1995年落ち込んできた彼のキャリアを生き返らせようとワルシャワのショパンコンクールに参加した。彼の演奏が観客を熱狂の渦に巻き込んだにもかかわらず審査員は1位を与えず2位をフランスのフィッリプ・ジュシアーノと分け合うとしただけだった。
授賞式に参加するのを拒否することでスルタノフ氏は抗議の意を表明した。
1990年代の彼のキャリアはポーランドと日本に集中していた。

1991年学生の時モスクワで出会ったチェロの生徒、デース・アベルと結婚した。そして二人はフォートワースに居場所を定めた。

10年後バスルームでめまいを起こし、倒れる際頭を打ちつけてしまった。これが脳の周りの出血を呼び起こし、血の塊を取り除く手術のあと一連の脳卒中にみまわれ彼は重度の左半身不随になった。

多くの療法のあと、スルタノフ氏は右手で妻とデュエットできるまでに回復し、病院や介護施設で演奏した。しかし左の手足と言語能力はなかなか回復せず、衰弱した筋肉の痙攣は彼を苦しめ続けた。

「彼は珍しいほど何事にもひるまない人だった。」とクライマー医師は語った。「たぶん世界中で最も泣き言を言わない人物でしょう。彼の奥さんもそうです。献身的で明るく前向きです。」

「彼のこれからもっと伸びたであろう可能性が、悲劇的な出来事により、まるで未完成の曲のように短く切りとられてしまったことが特別悲しまれることです。」「もしこうだったらという思いがつきまとうでしょう。モーツアルトやガーシュウィンと同じように。もし彼が長く生きて成長する機会をもっていたらどうなっただろうと・・・・」ロジンスキー氏が付け加えて言った。

彼の妻に加えて父ファイザル・スルタノフ、母ナタリア・ポゴレロフ、弟セルゲイ、 モスクワの皆にスルタノフは生かされたのだ。

スルタノフの人生を偲ぶ式典は火曜日の午後5時に行われる
於:フォートワース近代美術館公会堂
フォートワース、ダーネルストリート3200


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