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Dallas Morning

Dallas Morning News紙の2001年5月27日の記事の翻訳です。翻訳者は、素人のため、一部誤訳がある可能性がありますがご了承下さい。誤訳と思われる部分があれば、ご連絡頂けると幸いです。英文のオリジナル記事は、こちらで確認することが可能です。

Keeping the music alive:音楽はそのままで

2001年3月27日
クライバーンコンクールのメダリスト、スルタノフは、脳卒中を起こしてから復帰のため格闘している。
By Nancy Kruh

フォートワース:30人の若い音楽家が、フォートワースで開催中の第11回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、競争中である。このイベントは、究極のテストにも思える。17日の間、この上ないプレッシャーに押しつぶされながら、聴衆や批評家、審査委員からの評価をもらうため、競い合っている。

しかし、1989年のコンクールで金メダルを獲得した、ウズベキスタンのアレクセイ・スルタノフは、想像も出来なかった、さらに厳しいテストを、ほんの最近受けることになってしまった。

2月末、31歳のフォートワース住人は、重症の脳卒中で昏睡に入った。数日後、彼が意識を取り戻すと、医師は彼の左手と左足が動かないことを判断した。莫大な医療費による経済的な問題を抱えながら、彼は、ダラスのBaylorリハビリ施設に一時的に住み込み、再びコンサートピアニストとして活動するため、手足が自由に動かせるよう必死に格闘中である。

「ある場所から別の場所へ箱を動かす程度の仕事だったら、復帰させることは簡単です」と、彼がいる施設の医師である、Mary Carlile医師は言う。「でも、アレクセイのような天才は・・・。これは、人生最悪の悲劇であり、彼のような人にこんなことが起きるとは、なんとも皮肉なことです」

スルタノフ氏がどの程度回復出来るかがわかるには、数ヶ月か数年かかるだろう。しかし、とりあえずここまでは上手く回復している、と彼の医者は理学療法士は言う。

彼の家族は、再びいつの日かステージにたてると確信している。「彼のミッションは終わっていません。」と、妻になって10年ほどになるDace(dot-saと発音する)は言う。「彼は必ずよくなりますよ」

この卒中で、話すことは難しくなったが、スルタノフ氏は各種の決断をいろんな方法で表現する。そこには涙もなければ、自己憐憫もない。彼の療法士が言うどんな運動も、不平ひとつ言わずにこなす。鍵盤の前では、力強く起用な右手で、彼の音楽性は全く健在であることを証明してみせる。「ここだよ」と彼は、右手で軽く耳をたたき、つぎに額を指差して言う。

彼が成し遂げることは、12年前クライバーンコンクールでの優勝でも見られた、不屈の意志や自信からくる、というのは家族や友達だ。「アレクセイがクライバーンコンクールに来たとき、彼は優勝するつもりであり、優勝できないなんてことは受け入れなかったでしょう」と、当時クライバーン財団の芸術監督だったDenise Mullinsは言う。「彼は、自分自身を極限まで、おそらく彼自身が出来ると思っていたところのはるか先まで追求していました」

小さな頃から、スルタノフ氏の人生は、異常な挑戦や要求の連続であった。3歳の頃から音楽的才能をみせ、9歳の時には、正式なデビューを果たした。10代の前半で、故郷タシケントを離れ、名高いモスクワ音楽院で勉強した。1989年のクライバーンコンクールでは、ソ連からの4人の参加者のうちの1人であり、38人の参加ピアニスト全員の中でも最年少であった。5フィート2インチ(157.5cm)の背丈は、一番小さかった。しかし、彼が、リスト、プロコフィエフ、ショパンなど激しい選曲から演奏を開始すると、その轟音でも有名となった。聴衆は彼の独創性に夢中になり、審査委員の決定は満場一致であった。しかし、評論家の意見は二つに分かれた。

スルタノフ氏の演奏は、レビューによっては、情熱的とも書かれれば、無謀とも書かれる。若々しく生き生きしたともなれば、未熟ともいわれる。独創的ともなれば、けばけばしいとも言われる。「彼の解釈は絶壁にあり、それが聞く方を興奮させるんです」Mullins女史は言う。「彼はステージでの演奏を全く恐れることはしません。他の多くのピアニストには出来ないことが、彼には出来るです。。。でも、彼にとってよくても、そのことが彼に対する反発にもなりました。」

オフステージでの彼の人生は、芸術家特有の神経質と、ソロキャリアのプレッシャーの結果、演奏にみる激しさを繰り返すこととなった、と、Mullins女史は言う。ヴァン・クライバーンの勝利の後、スルタノフ氏は、徴兵制度にひっかかるソビエトへ戻らず、フォートワースに残る道を選択した。しかし、競争のない音大生から、クライバーン優勝の肩書きを持ち、コンサート契約をかかえ、およそ20万ドルを受け取ったことで、彼が実に準備不足であったことが明るみになった。

彼は、この国にほとんど英語もわからないまま、財布も持ち歩かずに到着した。「最初に彼を、車で家に連れてきたとき、彼はガレージの別の車をみて、『この家には他に誰が住んでいるの?』って聞いたんですよ。」と、彼のホストマザーであり、ロシア語に堪能な夫(Jon)を持つSusan Wilcoxは回顧する。「彼は実際私たちの文化の全てを学ぶ必要があったんです」

最初の3ヶ月、スルタノフ氏は英語を勉強し、スラングや単語遊びまでもマスターした。ジェット機で世界を飛び回るコンサートピアニストになることも、別の課題だった。「ワルシャワでコンサートをしたあと、飛行機に飛び乗ってロンドンに行き、ラジオで3つのインタビューに英語で答え、それから別のコンサートをすると、前もってわからないくらい疲れるものです。」と、Mullins女史は言う。「ダメなときも何度かありました。私が思うに、きっと彼は疲れていたり、フラストしていたりしたんでしょう。彼は人生を楽しみたがっていました。彼は家族に会いたがっていたし、友達にも会いたがっていました。」

何より、スルタノフ氏は、Dace Abeleさんに会いたがった。彼女は、彼がモスクワ音楽院で知り合ったラトビア出身のチェロの生徒で、その彼女も1991年にはフォートワースに連れてきました。その年のハロウィーンに結婚して以来、二人は離れられない関係となり、ちょっとした家を、フォートワースの南側に構えました。「彼らの愛情と、お互いの思いやりは、本当に驚くべきものです」と、Wilcox夫人は言う。「彼女は誰とでも上手くやっていけるタイプで、また誰もが愛するような人なんです」

スルタノフ夫妻は、一緒に、友達や旅行、そしてもちろんのこと音楽にあふれた人生を歩むことになった。いまだに、この並ならぬ才能を持った芸術家さえも、ソロピアニストとして生計をたてることは、「とても難しく、おそらく不可能である」と、"Piano Today"誌のStuart Isacoff氏は言う。「毎年、何千人ものピアニストが学校を卒業しますが、ほとんどが先生になるんです。きびしい世の中です」

スルタノフ氏は、クライバーン契約のコンサートスケジュールを1993年に終了させ、彼自身の道を独自のマネージメントで歩むことになった。コンサートピアニストの大勢にみられるように、彼は絶え間なく変わるテンポでキャリアを築き続けた。数年間で、彼は8枚のCDを録音した。この国で、少しずつではあるが、着実にファンを増やし、彼のぞくぞくさせる演奏は、ポーランドと日本で非常に多くの熱心なファンを生み出した。

昨年、スルタノフ夫人は主人のマネージメントを引き受け、収入のために、今年の後半に4ヶ月のコンサートツアーを組み立てた。

しかし、この計画は2月に消滅してしまった。インフルエンザで気分のすぐれなかったスルタノフは転倒し、彼の頭をうった。一週間後の2月26日、彼はほとんど話すことが出来ない状態で、神経医師のところへ歩いていった。数時間のうちに、彼は脳に圧迫を与えていた内出血を抑えるための手術を受けた。彼は、問題なく目を覚ましたが、麻酔による吐き気で、肺気腫をおこした。弱い血管を圧迫したことで、ひどい卒中をおこしてしまった。すぐに、手術が行われ、彼の命は不安定な状況となった。

神経医師であり、家族との付き合いもある、Edward Kramer医師は、待合室で、重々しくスルタノフ夫人に状況を説明した。彼女は、彼の手を握り締めて医者に言った。「彼を助けて下さい。私の半分は彼なんです。」彼は回顧する。「こんなにも真剣な眼差しで誰かから見られたのは初めてでしたよ。」

その時以来、32歳のスルタノフ夫人は、起きている間中ほとんどずっと夫のそばにいる。「最初の頃、彼女の愛と献身は、まさに光り輝いていましたよ。」と、Kramer医師は言う。

スルタノフ夫人が言うに、彼女は最初は涙ばっかりだったそうだ。でも、いまとなってはもう泣くことはない。見えないところでも、彼女はずっと夫の右手にいる。今日は左側だ。彼の手はおかしくなった神経のために、ボールのように丸くなっている。

スルタノフ氏は、3月22日にBaylor Instituteに移動され、外来患者として診察を受ける金曜日までは、そこにいることになっている。スルタノフ一家には、ささいな保険しかなく、収入もないため、高名な施設が低所得者向けの援助を受けれるようにしてくれ、彼に必要な大きなセラピーを受けれるようにした。財団規則により、クライバーン財団がこういった支援基金立ち上げを後援することは出来ないことになっている。スルタノフ氏のために、フォートワースの銀行に、支援基金が出来た。

優秀な料理人である、スルタノフ夫人は、夫の病状が安定したらケータリングビジネスに手を出したいと考えている。「何でもやるわよ」彼女はいう。「私は何もおそれていませんから」

当面の間、彼女と、彼女の義父であるモスクワのチェリストで今はリハビリ施設で息子につきっきりのFaizul Sultanovは、良好な結果のために励まし続けている。二週間前、彼に笑みが戻った。一日後、彼は物理療法の間、腕相撲のために左手を使ったのである。彼のしゃべりかたは徐々によくなり、ちょっとの間なら、自力で立つことも出来るようになった。

スルタノフ氏の治療に携わるものは、彼の強さに驚く。「これが彼を多いに助けることになるでしょう」と、物理療法師のHenry Mejia氏は言う。「私は彼がこんなに強いだなんて思っていませんでした。だって、小さい体ですから。でも、彼は強いですね。強い意志を持った、若者です」

Carlile医師が言うに、今回起こったことは、彼女の患者をいまだに落ち込ませている。「彼の父親は時々、アレクセイが『これは夢だよね』っていうんじゃないか、って言うんですよ」と、彼女は言う。また、スルタノフ氏は生計を立てていないことを心配している。静かに、つっかえながら、彼は夫人や父親や、お見舞いにくる彼の知人に、こんなことになってしまったことを謝った。彼らはみんな、彼に心配しないようにと頼んだ。みんな、彼にはリラックスしてほしいと思っているのだ。

何よりも、彼の筋肉が、再度リラックスすることを覚えなければならない。時々、フラストレーションで、スルタノフ氏は右手で左手をさわり、指をまっすぐにしようとする。毎日、彼はレパートリーから曲を選び、弾いてるつもりで練習する。「音楽は捨てられないからね」と彼は言う。

医者は、彼の能力がどれほど戻るかは予言できない。「私たちは、彼はもっとよくなる潜在性を秘めていると思ってます」と、Carlile医師は言う。「彼は、とても意欲的で、とても頑張ります。私たちがお願いすることは、拒むことなくやってくれますから。」

リハビリ施設の彼の小さな部屋では、家族や友達、音楽家仲間やファンからもらった、いろんな言語での、お見舞いの言葉が壁にびっしりと埋め尽くされている。「私たちは、いつもあなたのそばで、お祈りしています」とは、つたない英語で書かれたポーランドのファンからの手紙だ。「あなたは私たちの太陽で、喜びと幸せをもたらし、心を温めてくれます。」

彼を愛する人にとっては、彼が音楽家として復帰することしか考えられないだろう。「彼がこの状態から助けてくれるのは、彼の不屈の魂でしょう。」Mullins女史は言った。「彼は、私が知っている誰よりも、強い心を持っています。彼はみんなとコミュニケートすることを心から望んでいます。彼はピアノを弾くのが大好きです。彼は演奏が大好き。彼は本当によくなりたいと望んでいるでしょう。そして、彼は自分が望むことを、いつもやっちゃうんです」

Nancy Kruh は、ダラスのフリーライターです。


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