Stricken Genius

Chicago Tribune紙が12月18日-20日に連載したスルタノフ特集記事の翻訳です。Chicago Tribune誌の特集ページで演奏・映像付きで記事が公開されていました。(現在ページは削除されています)

この記事は、2005年12月18日-20日の新聞記事の連載になっており、それぞれの新聞のPDF版がスルタノフのオフィシャルホームページから閲覧可能です。
12月18日, 12月19日, 12月20日

シカゴトリビューン新聞 2005年12月18日発行
ハワード ライク記者著
日本語翻訳:鳴海和子様によるご提供


アレクセイ スルタノフ 天才音楽家の生涯と再起

五回の脳卒中の発作が彼から話すこと歩くことを奪う前彼は19歳でヴァンクライバーン国際ピアノコンクールで優勝し世界的名声を獲得していた。

ピアニストは病院のベッドの上に剃られたばかりの頭を包帯で巻かれ意識を失くした状態で横たわっていた。わずか数年前、彼は鍵盤の上をあまりの速さのため霞んで見える程エネルギッシュに指を走らせ度々椅子から飛び上がり音を一斉に響かせる驚異的なすばらしい演奏で見事な功績に輝いたのだった。医師が彼の頭を切り開く前、彼はまさにピアノの名手であった。聴衆はそのスピード、力強さ、鍵盤の上で音を轟かせる才能に驚嘆した。
ソビエトで訓練を受け、有名な国際ピアノコンクールのひとつであるヴァンクライバーン国際ピアノコンクールに参加し、史上最年少19歳で最高位に輝いたのであった。彼はまるでロックスターのようにふさふさしたタテガミのような髪でヨーロッパや極東の熱狂的なファンの前で演奏した。しかし10年以上経った今、フォートワースの病院の集中治療室でたくさんのチューブにつながれ延命のための治療を受けていた。もしスルタノフが目覚めて病院の装置につながれている自分を見ても驚かなかっただろう。子供時代の多くを彼に名声を与えてくれた手をしばしば傷つけ、切り傷や打撲で医師の治療を受けてこのような小部屋で過したから....。しかし今度は違っていた。
2001年2月27日、数時間前5回もの脳卒中の発作が彼を襲い、左半身にダメージを受け左目で見ることも話すことも体を動かすこともできなくなった。彼の妻は手術後夫が生き延びることができるかどうかと案じていた。そのとき彼女は病室の静寂の中で夫の指がひきつるように動くのに気がついた。初めは親指や人差し指の震え小指のたたくような動作は何の意味もない無作為のでたらめな動きに思われたが、とうとうそれがあるパターンを持っていることが明らかになった。無意識状態のピアニストは鍵盤の上に指を走らせているのであった。はっと思いついて彼女は翌日病室にテープデッキを持ち込み、かって彼がレコーディングしたシューベルトの即興曲変イ長調を静かに流してみた。彼の右手は空中で取り残されたメロディーを再び弾きだした。この動作は彼女に夫の動かなくなった体の中に音楽は本当に閉じ込められてしまったのか、かってベートーベンやブラームスの名曲を弾きこなした小さいしかし力強い彼の指が、再び簡単な曲なら弾けるのではないかと考えさせた。そして彼もそれを望んでいるに違いないと思わせのだった。

天才の幼年時代

旧ソビエト共和国ウズベキスタンの首都タシケントの三部屋しかないアパートで、アレクセイ・スルタノフが手を伸ばしてアップライトピアノの鍵盤を叩いたのはわずか生後6ヶ月のことだった。そのあとまもなく彼は母親の歌う歌をハミングして返してみせた。
「とても驚きました」去年の夏、彼の母ナタリア・スルタノフは家族と暮らす狭苦しいモスクワのアパートの、160cmも高さのある息子のカーネギーホールデビューの垂れ幕のかけられた居間で思い出を語った。「しばらくして私達は彼の才能のために残りの生涯を捧げる決意をしました」プロのバイオリニストだったナタリアは息子に与えられた才能を確信した。そしてオーケストラのチェロ奏者だった夫ファイザル・スルタノフと共に日毎にその思いを強くしていったのだった

2歳の時スルタノフは話すよりも早くソビエト製のピアノ「赤い10月」の鍵盤上で優美なメロディーを奏でて家族やその友達を驚かせた。スルタノフの耳は音楽のニュアンスにとても敏感で、ラジオや近くの公園から短調の物悲しい調べが聞こえると決まって泣き出すのだった。「そういう調べが彼を悲しませたのです」とナタリアは思い出を語った。感受性の強い息子のために、彼女はストリートミュージシャン達にお金を渡し演奏をやめてくれとか転調してくれとかしばしば頼んだのだった。

母親は息子を第2のヤッシャ・ハイフェッツにしたいと思い、小さいバイオリンで教えようとしたが彼は力ずくではねのけた。「僕はバイオリンを床の上で粉々にしたんだ」とかって彼はその時の思い出を語ったことがある。「それで両親は僕がピアノを習い始めるのを許したんだ」3歳のころ両親はピアノの基礎を彼に教えた。
2年後彼は作曲をし、聴くだけでベートーベンの作品を五線譜に転写することができた。その早熟な才能はタシケントでもっとも優秀なピアノ教師タマラ・ポポヴィッチのレッスンを受ける権利を彼に与えた。彼女すら彼の才能の大きさに目を見張らされたのだった。「彼はすでに完璧に聞き、完璧に歌えたのです」タシケントからの電話で彼女は当時を語った。

7歳の時、オーケストラをバックにモーツアルトピアノ協奏曲ニ長調ロンドの名演奏をやってのけタシケントの聴衆を驚かせた。この時両親が個人的に録った1977年5月のスルタノフのデビュー演奏の録音はこのモーツアルト奏者の輝く才能をはっきりと知らしめてくれた。その滑らかな叙情性あふれるタッチ、円熟した落ち着きのあるフレーズ、テクニックのきらめきは彼より倍も年上の学生達を失望させただろう。彼の両親は床にむき出しのままのマットレスの上で寝るほど貧しかったが、息子の才能と上達を記録するためなけなしのお金をかき集めてその演奏を録るカメラとテープデッキを買ったのだった。

母親は彼の天才ぶりに畏敬の念さえ持ったが、同時にそれが他の人の危険な嫉妬心を呼び起こすのではないかと懸念した。「誰も彼を傷つけないように息子をつかんで逃げ出したい感情に捕われました」とナタリアは言った。無数の可能性を持った天才にしばしば起こることだが、音楽は彼の幼年時代に覆い被さっていった。

少しの時間も無駄にしないため、母親は鍵盤の上に食事を運んだ。ポポヴィッチ先生に過酷な練習のみがこの手の天才に役立つと説得され、両親は時に子供に厳しい規律を与えた。
「妻はアレクセイを靴で叩くこともありました」と父ファイザル・スルタノフは言った。「アレクセイは時々『靴がいるよ。僕は練習をしなくちゃいけないから』とふざけました」
しかし母親は家族の愛と暖かさが靴の痛みが作るわずかな亀裂を埋めると信じていた。そしてまた彼女は苦悩していた。「一方であの子がかわいそうでならなかった。あの子の好きにさせて、楽しく過ごさせてと百篇でも言いたかったですよ」と母は語った。「でも明日はレッスンがあるんです」彼の技能は外見上は奇跡的なペースで進歩して言った。スルタノフは9歳でベートーベンの傑作ピアノ協奏曲第一番を演奏することができた。それは例えて言えば同年代の少年が大リーガーの野球選手としてプレーするようなものなのだ。

だが彼は自分自身を傷つけるようになっていった。彼は頻繁に手を切ったり青あざをつくったりして家に帰ってきた。本当のところ彼は天才の道具の手を傷つけることで音楽的進歩から逃げようと思ったのだ。救急室に息子がいる時はいつも「アレクセイがまた来てるわよ」と言われたとナタリアは語った。また子供のころバスルームに隠れてものを吐く癖をつけたと父は語った。両親は食べ過ぎたのだろうと思った。彼の過食症を、食べ過ぎたから吐いたのだと思う以外、ほかにどんな原因があるのかなんて思い至りもしなかったのだ。しかしこの癖は彼を蝕み続けたのだった。

多くの子供たちがのんびり過ごす夏の間も1年の他の月よりもさらに厳しく過ごした。1984~1986年10代のスルタノフはモスクワ地区の叔母(スヴェトラーナ・ヴォロダルスキー)のアパートに滞在し、朝から晩までポポヴィッチ先生とともに小さいリハーサル室で暑い夏の数ヶ月を過ごした。

「ポポヴィッチ先生がいない時はジャズを弾いたりして自由に音楽を楽しんでいました」と従弟のナルキサ・マハノバは語った。しかしポポヴィッチ先生の厳しい古典的なやり方は十分な成果をもたらした。15歳のとき彼は世界的に有名なモスクワ音楽院への養成機関である栄えあるモスクワ中央音楽院に受け入れられたのだ。
そこで彼は将来の妻になるチェロを学ぶラトビア人の学生デース(ダトゥサ)・アベルに出会い、恐ろしい瞬間が二人を運命的に結びつけることになるのだった。

ロマンスを掴んだ手

1986年4月20日雨の午後、数人の学生が伝説的なピアニストホロヴィッツを一目見ようとモスクワ音楽院のボリショイホールに集まった。ホロヴィッツは1920年共産政権から逃れて西に亡命して以来、初めての演奏をするのだった。ホロヴィッツの集会の実行委員はスルタノフとデース(ダットゥーサーと発音する)だった。チケットは高くて貴重で手に入らないから聴くことはできない、少なくとも正面玄関から入って聴くことなどとてもできないということを学生たちはよく知っていた。そこでスルタノフは隣接するビルに取り付けてある梯子を上って音楽院の屋上に飛び移ろうと仲間を誘った。そこからドアをすり抜けて屋根裏からホロヴィッツを見ることができたのだった。スルタノフが屋根に飛び移るのに成功した後、ほかの者も続いた。しかし午後の霧雨の中、小柄なブロンド美人、デースは音楽院の滑りやすい傾斜のある屋根の上で足場を失った。このまま落ちて死んでしまうと彼女は思った。

スルタノフは彼の小さいが力のある腕を近くのアンテナに絡ませ、片方を彼女に差し出した。「アレクセイは滑り落ちる私を見てすぐに掴んで助けあげてくれたの」とデースは思い出しながら言った。「あとで彼はみんなに言ったわ。近くにあるアンテナを掴んで女の子を掴んだ。見たらまあまあだったから助けてあげたんだって」

スルタノフの一掴みで結びついた二人はもう離れることはできなかった。クラスをサボってモスクワの公園を散歩したり、リハーサル室でショパンやサンサーンスをデュエットしたりお互いのうるさい両親の監視から遠く離れて二人の関係はますます緊密になっていった。しかしデースと一緒にスルタノフが見出した慰めも彼の音楽上の相反する感情の相克を解決することはなかった。

1986年の秋、二人はモスクワ音楽院に入学を許された。スルタノフはますます反抗的になった。「彼に規律を課すのはとても難しかった」と高名なピアノの教授レフ・ナウモフはモスクワのアパートで語った。「彼は高価な学校のドラムを壊したし、音楽院の指導にとって好ましくないつまり偉大なロシアの伝統にふさわしくないとされるレパートリーの作品を弾いたんだよ」と付け加えて言った。
スルタノフへの圧力は増すばかりであった。それから当分、彼は最も将来を嘱望されたピアニストを無慈悲なまでに追いやるソビエトの音楽教育システムに完全に埋没させられた。
スルタノフとその仲間たちは、国際的なピアノコンクールで闘うに値する競争者を生産するよう設計された流れ作業の一環として、延々と続く地方や国内のコンクールに耐えた。

競争に追い立てられたりしたが、彼は成功をもたらす超精密機械(手)を傷つけることで、簡単にそのシステムに反抗することが出来た。

1986年モスクワのチャイコフスキー国際ピアノコンクールで競争中、彼は右手を壁に強打した。たぶん何年もの鬱憤を晴らそうと感情が爆発したのだろう。その衝撃で彼の小指は砕かれてしまった。
「私はたった30分彼の元を離れただけでした。戻ったとき彼は手を見せました。」このコンクールのためにモスクワに来ていたナタリアは言った。「指は腫れて青あざができていました」骨折はコンクールから彼を締め出した。その当時教師や両親の怒りを避けるため、スルタノフは怪我はピアノのせいだと言い張った。ピアノの蓋が折り悪く閉まって指を挟んだのだと。母は何が起こったのかはっきり知ろうと努めた。そして今日まで事実を話すことができないでいた。「ほかの苦痛をもたらす考えより蓋のせいだと考えるほうが受け入れやすかったから」と彼女は言った。
両親は、スルタノフが親から離れて監督されないため音楽院で満足できるほど熱心に勉強していないと思った。そこで1988年タシケントからモスクワに引っ越した。彼の経歴上の最大の演奏にむけて彼が準備をするのを励ますために。

聴衆は僕を愛してくれた

 1989年ヴァンクライバーン国際ピアノコンクールで、金メダルとその後に約束されている何十万ドルかをもたらすコンサートを射止めるために、世界中で最も優れた技術を持つ38人の若いピアニスト達がアメリカのフォートワースに集まった。しかしソビエト代表の身長160cm、体重48.5kgのティーンエイジャーには誰も敵わなかった。アレクセイ・スルタノフはスタンウェイを壮大に震わせて激しい嵐のように鍵盤を強襲した。彼はピアノを弾くというより征服しようとしているかのようだった。スルタノフは猛烈なスピードと轟き響くクレッシェンドで聴衆に衝撃を与えた。彼が狂乱の縁すれすれに演奏したので人々は驚きのあまり静まり返った。リストのメフィストワルツを演奏中、ピアニストが二叩きした和音とビリビリ共鳴する低音が金属の弦を切ってしまった。
「本選の演奏をし終わったとき勝ったと思いました」金メダルを獲得した後すぐにトリビューンの記者にアレクセイは言った。「聴衆は僕を愛してくれたと思います」

勝利はスルタノフを贅沢な生活に放り込んだ。彼はTVの人気番組でジョニー・カーソンやデヴィット・レターマンとトークしたり、金縁が施されたヨーロッパのコンサートホールで名を上げたことの栄光に浴したりした。ツアーの間ファンは、髪を肩まで伸ばした魅力的なピアニストをセックスシンボルのように扱った。そしてスルタノフとお近づきになりたいと、女性ファンはステージにパンティーやホテルの鍵を投げ入れた。 しかし音楽家は相変わらず1990年に結婚した妻デースに心奪われていた。
休日は崖からバンジージャンプをしたり、ジェットコースターに乗ったり、夜通しテレビゲームをしたりして楽しんだ。まるで失われた子供時代を取り戻そうとするかのように。

一つのミスタッチ

 1991年海外コンサートツアーから帰って、スルタノフは腹部に鋭い痛みを感じた。フォートワースに着くとすぐに病院に駆け込み、盲腸の手術を受けた。「イベントは彼の体をガタガタにしたのです」デースは言った。スルタノフの病気は増え続けた。胃痙攣、過敏性腸症候群、痙攣性結腸、過食症、および先天性高血圧、親類の何人かが脳卒中の発作で倒れているので同じ運命が自分にも待ち受けているのではないかと彼は恐れた。
彼は旅行中も血圧計を持っていって常に数値を観察した。また彼の医学上の状態はどうか貪るように読み調べ、卒中の発作が瞬間的に起こることを知った。(その時脳に送られる血が突然止められてしまうことを)

また彼にはキャリアが失速状態にあるというもうひとつの心配があった。クライバーンで優勝した後一年間スルタノフは45回のコンサートを行なった。この数年はたった6回行なっただけだった。クライバーンコンテスト優勝者の次の波はスポットライト、コンサート契約、レコード会社との取引などに縛られることだった。そこで彼は1995年ショパン国際ピアノコンクールに参加するためワルシャワに旅立った。それは10年前彼が指を折ったチャイコフスキーコンクールについで2番目の最も重要なコンクールだった。
「芸術家としての私の人生に彩を添えたい、人々にまだ私は生きているということを示したいのです」その時スルタノフはこう語った。

ワルシャワでスルタノフの音楽は変成したように響いた。1989年のクライバーンコンクールで弦を切るほど激しい超人的な演奏は、新しい感性と内省を示した。フォートワースでは熱く激しい演奏を見せ付けていたティーンエイジャーだったが、今度はワルシャワでショパンのロ短調ソナタの中に表現豊かなフレーズと叙情的なタッチを見出したのだった。スルタノフは成熟した。クライバーンコンクールの後の生活上の苦い経験を通して彼の音楽性と芸術性を深めたのだった。しかしこの時は金メダルではなかった。審査員は、一位なしとし(これは1927年にコンクールが始まって以来たった2回しかないことだが)スルタノフとフランス人のピアニスト、フィリップ・ジュジアーノは2位を分け合った。スルタノフには別途「聴衆賞」が贈られた。「彼は一位の栄誉に輝くと確信していたのでとても失望したのです。」と妻は語った。結果発表の後A.P.通信の記者がコメントを取ろうと不機嫌なスルタノフに近づくと「一人にしてくれ」と言われた。

彼は何ヶ月にも渡って失敗と屈辱が何によるのかを考察し、考え込んだ。彼はもう妻なしでフォートワースの外に旅行しなかった。子供時代のストレスの多い世界に対する憤りが我慢の限界を超えた。スルタノフはフォートワースから彼が買い与えたモスクワの両親のアパートに頻繁に長距離電話をかけ、なぜ僕の子供時代を苦しめたんだと聞いた。「20歳後半になってそのことがすべて出てきたんです」と彼の妻は言った。彼は両親に「なぜ僕にこんなことをさせたんだ」と言った。スルタノフはこの電話のことを覚えていたが、特に重要なこととは思っていなかった。「たぶんそれは人間のもって生まれた性格によるのでしょう」と母親は言った。「彼は残りの幸福ではなく悪い瞬間を思い出すのです」

残念なことに、彼の心配していたことはさらに悪化した。1996年4月2日、彼は東京紀尾井ホールの公演で、優雅に白の蝶ネクタイと燕尾服でステージにあがり、以前にも数え切れないほど弾いた作品を演奏する準備をした。彼の指はゆっくりと入念な構想を持って鍵盤の上を走った。衝撃的な音の滑りが起きる前のベートーベンのソナタ「熱情」の始まりの部分を弾いた。スルタノフの右手は鍵盤の上を楽譜どおりに走った。しかし走り滑るフレーズが最高潮に近づいたとき(嵐のような響きの中わずかな音程の違いだったが)彼の小指は間違った音を打った。一般の聴衆はスルタノフの雷のように響く音の中でその間違いに気づかなかった。ベテランの音楽家でさえもスルタノフがシ♭のかわりの打った高いドに気づかなかっただろう。しかしスルタノフはこの小さなミスタッチが危険の前触れであることを知った。

喝采のうちに「熱情」を弾き終えるとバックステージに歩いていってデースに言った。
「発作が起きたようだ。ほんの一瞬手が動かなかったようだ。今までないことだがほんの一瞬卒中が起きたようだった」スルタノフは急いで医者に見てもらった。彼は脳卒中の発作に襲われたと言ったが誰も信じてくれなかった。

 数週間後、フォートワースのエド・クレーマー医師はスキャンしたスルタノフの脳の画像を調べて、誰もが見落とすような針で突いたような小さな黒い点が灰色の海の中にいくつかあるのに気がついた。この黒点は、脳の組織が血管の小さな破裂または破裂の後の閉塞によって壊死したものだと結論づけた。クレーマーはスルタノフに気分が高揚したとき最低血圧(心臓が弛緩して血液を吸い込むときの血圧)が上がるつまり心臓の鼓動とともに下の血圧が高くなる言うことだと助言した。医師は彼の自己診断は正しかったと言った。
東京の演奏のストレス下でスルタノフは小さな卒中を経験したようだとクレーマー医師は言った。しかしドクターは彼の新しい患者はすぐに治るだろうと楽観的だった。そしてすぐスルタノフは以前のように敏捷に演奏していた。
だがまたスルタノフはコンピューターを叩きインターネットで医学記事を調べ、なぜ体がこのような発作を起こすのか医学上の彼の体の状態を詳細に分析することに懸命になった。
「脳へのストレスは感情や精神状態によって影響を受ける。惨めな経験や恐ろしい感情によって静脈や毛細血管も緊張を強いられる」と1996年4月27日に彼は書いている。
スルタノフは最悪を恐れた。

ある心配がおこったので彼は彼のキャリアを甦らせようとした。1990年以降コンサート予約は少なくなっていた。そこで、彼の妻がマネージャーをしていたのだ。
スルタノフはもうひとつのチャンスに出会った。世界的に権威あるチャイコフスキー国際コンクールが1998年春モスクワで開催されるのだ。それはクラシック界の若い演奏家のために開かれるのだった。28歳のスルタノフは戦う準備は整っていると感じた。
 彼のコンテストでの演奏は盛大な喝采を巻き起こした。聴衆やマスコミは早くも彼を「お気に入り」に指名した。しかし審査員は見事に二つに分かれた。この極端な高得点低得点の組み合わせによる点数は彼の決勝出場を妨げた。新聞はこの決定を「スキャンダル」と書き立てた。「彼にチャンスを与えまいとして追い払われたのだ」とチャイコフスキーコンクールの審査員を務めたナウモフ教授は言った。何人かの審査員は、かって彼の教え子が高得点を取るのに逆らってわざと低い点数をつけたのだと強い口調で言った。絶望の果てにすっかり意気消沈してスルタノフは授賞式に出ることを拒み、この最新の挫折からよろめき去った。2000年リサイタルのためモスクワに戻ったスルタノフは極度の疲労に襲われているように見えた。「真っ白い顔をして目の周りに真っ黒い隈をつくっていました。その手はぶるぶる震えていました」とただ一人の弟セルゲイは言った。

脳内の嵐

2001年2月のある晩、スルタノフは、妻と二人で住むフォートワースの自宅のバスルームに入り、トイレに体をかがめ夕食で食べたものをもどした。ほんの数分前、自分で調理したフレンチオニオンスープを一椀食べ、そのとき乳糖不対症のため食べないと決めていたチーズを、その匂いと味に抗いがたく飲み下した途端、胃が痛みと吐き気を催したのだ。彼は小さい頃からよくしたようにバスルームに籠って食べた物を空っぽにしようとした。その最中彼はめまいに襲われ、バランスを失って頭の左側を洗面台に強く打ちつけてしまった。居間に戻ったとき妻は彼の頭の小さな瘤に気がついた。「アリョーシャ、どうかしたの?」と彼女は彼の愛称で問いかけた。スルタノフは彼女に起こった事を話した。二人はこの小さな傷のことを少しも気にとめなかった。

何日か過ぎて彼は体が弱まりとうとう右手を動かすことも名前を書くことも出来なくなった。妻はすぐに以前小さな卒中の発作と診断してくれたフォートワースの脳神経外科医、クレイマー医師に電話した。彼は直ちにスルタノフを緊急救命室に運び、結局、2001年2月26日、彼の勤務する病院に入院した。
「彼は青白く血の気をなくし震えがきていていかにも具合が悪そうだった」とクレイマーはその時のことを語った。「彼は積極的に正常な状態を保とうとしたが右手をうまく制御できないようだった」

病院でのCTスキャンにより、スルタノフの頭の中の血溜りは彼の脳を覆う最も外側の膜の近くにあることがはっきりとわかった。それは彼の頭蓋のてっぺんから下は耳の辺りまで広がり溜まっていた。それが彼の脳を圧迫し、顔色を青白くさせ、体の自由を奪いその他のいろいろな症状を惹き起こしているのだった。医師たちは硬膜下出血と診断した。それは通常手術をしなければならないことが多いが、溜まった血を速やかに取り去ることでほとんど回復するものだった。その晩看護婦が彼の厚いふさふさした髪の一部を剃ったのち、医師たちは彼の骨片を切開し、血を吸出し圧迫を取り去った。「手術後スルタノフは呼びかけに答え、目を覚まし、会話した」とクレイマーは当時を語った。「それで神様ありがとう、すべてはうまくいった、O.Kサインを出すつもりだと我々は思った」
クレイマーが家に戻った午後1時頃看護婦はスルタノフが意識をなくし青ざめているのに気がついた。それは脳内出血が起きているしるしだった。頭蓋骨のCT写真は頭の中で最悪なことが起きていることを示した。非常に大量の血があらゆるところに溜まり、左から右へ彼の脳を圧迫し始めていた。ますます増え続ける大量の血は拳で殴るようなダメージを脳の器官に与えた。脳幹やその他の部位に繋がる血管は切断され押しつぶされた。それは生命維持に必要な酸素やブドウ糖が傷つきやすい組織に送られないということだった。入院中にひとつどころか5つの脳卒中の発作が彼の脳をだめにした。手術中でさえ出血は続いた。医師団は、まだわかっていない肝臓の状態の何かが血液が正常に凝固するのを妨げていると断定した。いちおう出血は止まった。しかしダメージを受けた。脳卒中は彼の脳の一部(音楽を創り出す複雑で卓越した能力と日常の生活に必要な能力を司る中枢)を破壊した。スルタノフの左右の視床下部(体からのメッセージを受け取る脳の領域)も破壊された。また脳卒中は眼の筋肉をコントロールする中脳の組織を根こそぎ消しとった。右の橋(後脳)、脳からの体へ伝わるメッセージを認める脳幹の生命維持に関わる一部を根こそぎ消しとった。スルタノフのモーターの性能は失われたのだ。「3月1日これらの出来事の後撮られたスルタノフの脳の画像は台風の気象学上の研究に似ています」とクレーマーは言った。天才が破壊される時間経過画像とそれらはまったくよく似通っていると・・・。


小さな ステップ

ピアノを学びなおす

アレスセイ・スルタノフ、かってピアノの上で楽聖ベートーベンやシューベルトの主人であった彼はヤマハグランドピアノの前に座って、まだ動く右手で「ハッピーバースデー」の音を拾おうと格闘していた。見えない左目、左半身の不随、よく話せない口、彼は動かせる5本の指で鍵盤を押して、間違った音程ででたらめな和音をよわよわしく創り出した。
コンクール覇者のピアニストが一晩で5回もの脳卒中で動けなくなって以来2年が経っていた。その間彼は音楽を聴くことを拒んだ。その響きがひどく彼を苦しませると妻のデースは確信していた。指を立てて、1本ならイエス、二本ならノーと会話することを習っていたとき、彼女がステレオをつけましょうかと言うや否や彼はノーのゼスチャーをした。

だが2003年10月12日のこの晩デース・スルタノフの35歳誕生日を祝うフォートワースの家の静かな晩餐のあと、夫婦のディナーの招待客は、力ずくで彼にあることをやらせようと決意した。ドナ・ウィットン、最も新しいスルタノフの理学療法士は、奥さんのために「ハッピーバスデー」を弾いてみたらとしつこく挑んだ。「さあ、アレクセイ、ピアノのところに行きましょう。」とウィットンは言った。「あらまあそんな、もう時間も遅いわ」とデースは応じた。彼女は本当は何を考えているのか言わなかった。私は彼がどんなふうにピアノに対して感じているかわかっていると。ひるまずウィットンはスルタノフを真っ黒いグランドピアノのところに連れて行って小さな曲を弾くように強く頼んだ。 「かろうじて指が動くのが見て取れました。ほんのかすかな音が出ました」ウィットンはその時のことを語った。

ウィットンはスルタノフの車椅子の前に跪き、彼自身と直接向き合った。
彼女は彼の顔を見つめて「もう一度ピアノを弾いて欲しいの。あなたは困難と闘える人よ。そしてそれが出来る人よ。もしカムバックしたいと思ったらそれが出来る人なのよ」
「もう一度あなたがステージに立つ時、わたしは楽譜のページめくりをするわ。そうでければ正面席の真ん中に座っているわ。あなたを誇らしく思って」
デースはウィットンのこの言葉を聞いて凍りついた。夫がすすり泣きだすか、麻痺した動かない体の殻に深く閉じこもってしまうと固く信じていたから。
しかしウィットンはもうひとつのお願いをしてさらに押した。それは数年前は彼には冗談だった。しかし今は、彼女の前に車椅子に座っている34歳の男性にとっては聳え立つエベレストを意味した。彼女は2ヵ月後のクリスマスに弾く「聖しこの夜」を習ってみないと言ったのだ。ウィットンは彼がやろうとするかどうか確信はなかった。ただこの途方もない限界があるのにもかかわらず、彼はもう一度ピアノを習うことが出来ると信じていた。
そして彼を外界に引っ張り出そうとするそのすばらしい行為が、世界と彼を結びつけると信じていた。実用的なすべてを長引く病の間に失ってしまったにもかかわらず、音楽は生き残ったと感じた。「彼の眼の中に見て取れたの」とウィットンは言った。「まだそこにあるとわかったわ」と。

沈黙を破って

スルタノフの脳卒中以来、困難な2年の歳月の中で彼には音楽は存在しなかった。彼が外科手術と脳障害に関連する消耗疾患と闘ったころ、彼は妻がラジオやステレオをつけるのを絶対に許さなかった。デースは夫がもう一度音楽を聴くのを強く望んでいた。しかしスルタノフは2003年6月ウィットンが自分の理学療法士になるまで聴こうとなんか思わなかっただろう。4ヶ月後には彼女は車椅子をピアノの前までころがして行って鍵盤の上に手を置くようにと命令するようになったわけだが。

エネルギーにあふれ楽天家でいつも笑顔の快活な赤毛のウィットンはスルタノフの激しく痙攣する筋肉をよくするために呼ばれた。しかし彼女は急速に自分の役割を広げていった。
彼女の最初の戦略は音楽に触れようとさえしないことをスルタノフに止めさせることだった。
「彼と理学療法をしているときは音楽が欲しいわね。彼の音楽が・・」と彼女はデースに言った。デースはスルタノフが聞こえないところまで彼女を引っ張って行った。
「それは出来ないわ」とデース(ダットゥーサーと発音する)は言った。「音楽は彼を悲しませるし、自分の音楽を聴いたら泣き出してしまうんです。彼が以前行なった彼自身の演奏を聞くと」
「いいわ。彼の好きな音楽をかけて、なんでもいいから」とウィットンは言った。
妻が驚いたことにスルタノフは同意した。彼の今の状態のためにその理由は説明できなかったけれど。
それ以来スルタノフ家は交響曲や協奏曲やブギウギやジャズで再びにぎやかになった。
ウィットンが週2回理学療法を指導するとき、(スルタノフの強張った手足を引っ張ったり空気で膨らませた大きなボールに彼を覆いかぶるせるようにして体を曲げさせたり、ほとんど動かない彼の足で立つことを強制し、歩かせようとしたりしている時) バックミュージックでデューク・エリントンやカウント・バシーがほえていた。
握り締めたまま固まってしまった彼の左の拳を引っ張って開かせようとしたり、爪楊枝を長いこと持ち上げられない手を基準値まで到達させようとしたりしている時、フランク・シナトラやナットキングが囁いていた。
 スルタノフはウィットンが予想したい以上に熱心に訓練に応じた。彼のゆがんだ体が許す限りのすべてを試みようとし、次にまたいくつかを試みようとした。「多くの脳卒中の患者は療法の最中落ちてスルタノフよりももっとひどい傷を負うのではないかと怖がるけれど、スルタノフは彼の限度以上に成果を上げようと頑張るので抑えなければなら程だったわ」とウィットンは言った。

一度はバンジージャンプを楽しんだ程のこの男の度胸は何一つ失われてはいなかった。ただ単に、彼の体がそういうことを満喫するのを許さないということだけなのだった。
「彼は未だに危険をものともせず、ひやひやするようなことが大好き人間なのよ」とウィットンは言った。「それが目をぶつけることもなくボールの上で上や下にと彼を回転させることが出来た理由なの」
苦痛に満ちた子供時代、スルタノフは厳格なロシア式クラシック訓練法からの秘密のエスケープとしてジャズを弾いたが、今は違った方法でリズミカルな音楽の後押しは、彼を鼓舞させた。体を動かせるようになろうと格闘していたとき彼は音楽からエネルギーを吸収した。クラヴァンとアバロンが音響装置で金切り声を上げている間、届かせようとしたり、引っ張ったり、うまく動かせるようになろうと挑戦していた。
それは、奥さんの誕生日に「ハッピーバースデー」を弾いてと頼もうと、ウィットンを奮起させたスルタノフの混じりけのない感情のほとばしりなのだった。

理由はとにかくスルタノフは突然勢いよく練習に取り掛かるようになった。たとえ最初の結果があまりにもひどくて、友達や家族が一連の曲になるのだろうかと危ぶんだ程だったけれど・・・。
自宅の練習室のグランドピアノの鍵盤の上に指を置いたときかろうじて音を創り出すことができた。―かつてはピアノ線を断ち切った力強い連打のかすかな反響音―彼の指は鍵盤を完全に押すにはあまりに弱すぎるとわかった。
妻は子供用のキーボードを買ってきた。スルタノフはそれで毎日数分ずつ練習を始めた。脳は空間位置認知力にダメージを受けていたので、彼はしっかりと真っ直ぐに座っていられなかった。そこでデースは彼女の肩と腕で彼の左側を支えなければならなかった。彼がまだ訓練されない右手で間が抜けた音を弾き出す間中ずっと。

「最初に外に出された音は全く何がなんだかさっぱりわからないものだった」と彼の脳神経外科医クレーマーは言った。スルタノフ以外は誰にもわからない、何の音楽的なきらめきも無い、ちょっと聞いただけではでたらめな不協和音の集まりだと言及しながら。
もっとも数週間以内で彼は楽譜ではなく(なぜなら視覚障害のため楽譜を読めなかったから)記憶と耳で「聖しこの夜」の音の高低を探し始めた。

2003年クリスマス休暇のお祝に、友達や家族がスルタノフ家に集まった時デースはつい最近やっと手に入れた二人のためのクリスマスプレゼント、携帯用電子ピアノの前にスルタノフの車椅子を押して行った。二人は「聖しこの夜」を弾きはじめた。
休暇を過すためにモスクワからフォートワースに来ていた父ファイザル・スルタノフは演奏の間中ずっと家に電話をかけ、母親に息子が再び弾いているのを聞かせた。
「涙が顔を覆ってまったく話すことが出来ませんでした。自分を落ち着かせた後アリョーシャの耳に受話器を当ててと頼みました」とナタリア・スルタノフは息子の愛称で言った。「彼は話せませんでしたが私は言いました。これはほんの始まりよ。神様のようにお前を限りなく愛していますよって」

その夜から彼は以前にもまして、いやたぶん以前以上にピアノを練習した。彼は両親や教師に脅かされて練習したり、また有名になるための優勝や、お金のために練習したりすることを望んではいなかった。たぶん彼の人生で初めて純粋に音楽を作るためにピアノを弾いていた。

再びステージへ

デース・スルタノフは車椅子から夫を持ち上げるとピアノ用のベンチに座らせ、彼が転げ落ちないようすばやくそばに寄り添った。彼女の右手で彼の左手を握り、ほとんど動かせない彼の体を幇助するためぴったりと寄りかかった。そして式の進行係に優しくほほ笑んでコンサートを始めることが出来ると知らせた。
「ご来場の皆さん、世界的な偉大なピアニスト、アレクセイ・スルタノフです。彼がカムバックツアーをします。」とクレーマー医師が言った。 彼の再起演奏会はクレーマー医師の脳神経外科病棟の待合室だった。車椅子や杖や松葉杖の聴衆はうっとりと聞いた。彼らはスポーツするみたいに優勝トロフィーを掴み取り、何回もヨーロッパの文化的な建物でツアーコンサートを行ったり、カーネギーホールで大喝采を浴びたり、テレビでデビット・レターマンと冗談を言い合ったりした元有名人が姿を現したことに興味を持った。
2004年6月のこの晩、しかしながらそれらの魅力的な過去の出来事は煌々と照らす蛍光灯と金属製の書類入れのキャビネットの背景に崩れ去った。スルタノフはTシャツとスウェットスーツでポータブルピアノの前に座った。しかし彼らはローヤルアルバートホールでスタンウェイのグランドピアノをタキシードとロングドレスで演奏するのと少しも変わらぬように振舞った。デースは、夫の唯一自由がきく体の部分、右手で音楽を作るか細い能力が再び目覚めるのを助けた。デースは始まるのを待ちかねた。彼女がキーボードの音量を上げ、2、3拍子をとるとすぐに二人の音楽家は子供ためのピアノのバイブル、チャイコフスキーの子供のためのアルバムから[甘い夢]を作曲家がびっくりするようなやり方で演奏した。

アレクセイスルタノフはこの楽器のブンチャカブンチャカと鳴るリズムをバックにたどたどしく音楽の旋律をなぞり始め、デースは和音部分を弾いた。それはチャイコフスキーというよりはブッカー・TやMGを思い起こさせた。彼の震える右指はキーボードの上をゆっくりとしかし少しの間違いも無く上がったり下がったりした。かって彼は二つの手でスピードと力の組み合わせで爆発を起こし鍵盤上を支配したが、この晩、スルタノフはゆっくりと自分に合わせて弾く妻の伴奏の助けによって大成功を収めた。チャイコフスキーの音楽のおかげと、楽器を通じて新しい方向に進もうとするスルタノフの姿勢は神経外科病棟の聴衆の心を目に見えて動かし、「甘い夢」終わったときの彼らの拍手はピアニストを明らかに励ました。
まもなく彼はシューベルトの即興曲変イ長調で花開いた。それは3年前フォートワースの病院のベッドの上で意識不明の状態で彼の指がなぞっていたのと同じ作品だった。彼のリサイタルに弾みがついてきたとき、モーツアルトのピアノ協奏曲No.21のいくつかの特別な音を即興で付け加えたり、イタリアの歌「オー・ソレミオ」をテンポをあげて弾いたりした。今この男はチャンスを捉えつつあった。それはただ音楽家だけが感じ取ることができるとても微妙なものではあったが・・・。ときたまスルタノフがフレーズを間違えたりすると彼の妻はすばやく完全な状態にした。この方法は長い時間を共に過した夫婦が会話の中でよくやることだ。

脳卒中以来、左側はほとんど凍りついたままのためスルタノフの表情から彼の感情を読み取ることは難しかったが、その瞬間を喜んでいるかのようだった。そしてますます音楽に趣を添えようとしているかのようだった。
アンコールを受けるとリクエストに「アメリカ・ザ・ビューティフル」「星条旗よ永遠なれ」「クリスマスキャロル」や数々のポップソングで応えると集まった人々は一緒になって歌った。
しかしクレイマー医師の病院でのコンサートは始まりに過ぎなかった。聴衆は介護施設や病院で待っていた。その他障害を持つ人々は障害を受けてからのスルタノフの芸術を正しく理解できた。カムバックは始まっていた。


音楽の精神は残っていた

デース・スルタノフはフォートワースの自宅の居間の電子ピアノの前に夫を車椅子で連れて行った。今まで書かれた中で最も難しい曲のひとつを下稽古するために。2001年脳卒中による急激な一連の麻痺によって、かって世界的に名を馳せたピアニストは歩くことも話すこともできなくなった。しかし彼は右手に再び弾くことを教え、ショパンの協奏曲、モーツアルトのソナタ、チャイコフスキーの子供のための作品などから抜粋してレパートリーを広げた。
2004年6月のこの朝、多くのピアニストが近寄ることさえ慄く、ラフマニノフピアノ協奏曲第3番の楽譜を人差し指で指し示した。協奏曲の演奏中、スルタノフは華麗で技巧に富んだ作品から何千もの音を剥ぎ取り音楽的芯だけを切り取った。
クラシック音楽のファンにとってはこのスルタノフの奮闘振りはクラシック音楽のまがい物に過ぎないように思われただろう。実際、脳卒中が彼の体をねじり彼のコンサートピアニストとしてのキャリアを破壊する前は決してやらなかっただろう。だがそのやり方で彼はそつなくクラシック音楽を演奏し再確認しつつあった。
スルタノフはかって作品を通じて名声に輝いた五本の指に新しい役割を与えた。彼の手がキーボードを横切って恐る恐る動くとき、彼の頭は内なる耳が聞くことの出来る音の上がり下がりを決定するため先へ先へと進まなければならなかった。
結果的には彼は不朽の名曲を、彼のかろうじて操れる体でまだ創り出せるメロディーに作り変えていた.
 妻はスルタノフに即興をやってみたいかと聞いた。彼はイエスのジェスチャーをした。そこでエラ・フィッツジェラルドが歌う「マイファニーヴァレンタイン」をかけるとスルタノフは電子ピアノでリフィング(ジャズの楽節反復)を始め、エラのキーの高さと和音を見つけた。それは彼が絶対音感を保持している確かな証拠だった。それもあた得る限りよい状態で保たれていた。
エラの柔らかな透き通った声の響きはロレンツ・ハートのほろ甘苦い歌詞をゆっくりと歌い進んだ。「あなたは不恰好で写真写りが悪いわ。でもわたしの大好きな芸術作品よ。(Your looks are laughable, unphotographable, yet you're my favorite work of art.)」
二つの涙がうっすらと赤みがさしたスルタノフの頬を流れ落ちた。

表面的な観察者にはスルタノフの偉業(口もきけず、感情がないまま動かない体で音楽を創ること)は説明のつかないことのように思えた。話すことも歩くことも出来ない男がどうやって複雑な音楽作品を集中して巧みに創り出せるのか、片方だけのうまく動かない手をどうやってなだめすかしながら演奏させるのか。答えは彼の妙技が真に占めている彼の脳の中に隠し置かれていた。
「彼の外見がいかに損なわれた状態に見えてもそれにとらわれないでことです。彼の内面は事実上非常によく保たれています」とハーバード大学の脳と音楽研究所の所長マーク・トゥラモ博士は言った。トゥラモ博士は去年、トリビューンの依頼でスルタノフのCTスキャンとMRIを研究し、このピアニストが外見上の制限にもかかわらず、なぜまだ演奏することが出来るのか解明しようと努めた。
脳卒中は体の隅々から送られる刺激を受けとるスルタノフの脳の部分を破壊した。また脳から体の隅々に刺激を伝えるための脳の重要な組織も傷つけた。この結果スルタノフの才能の動力はほとんど拭い去られてしまった。しかし彼の脳皮質(我々が取り巻く世界をうまく認識できるよう助けると思われている神経細胞の外殻)は2001年の脳卒中で傷を受けなかったように思われるとトゥラモ博士は語った。
「彼の音楽的才能、情緒的生活、抽象的思考力、すなわち知性と審美的感情活動を司る脳の組織は実際は代替可能です」トゥラモ博士は言った。「彼の音楽の記憶はまだ保たれています」
細胞レベルにおいて音楽に関わる脳は事実上いまだに解明されていない領域だ。スルタノフの脳卒中の悲惨な状態が音楽の名手に与えられた贈り物をいかに急激に奪い去ったかを見せつけたが、しかしながらゆっくりと困難を伴うことではあるが、いかに更生できるかを示した。

科学は音楽形成についての暗号をまだやっと少し解明しようとしているところだ。一般的見解は音楽は両耳付近にある神経線維の絡み合い密集している部位から脳の聴覚を司る表層細胞への過程を経るとされている。脳のCTスキャンによるとスルタノフの脳の機能的領域―特に右側一が脳卒中に侵されなかったことを示している。前頭葉は(我々が計画したり集中したり、思考したりする脳の領域)、また最も代替可能であった。
研究は音楽家は脳半球の深い部分に渡って彼らの音楽的知識を分散させることが多いようだと提示した。それでスルタノフは音楽をやらない人よりもダメージを受けていない広い領域から記憶を引き出しているのだろう。
「それはまったく未知の仕組みです。我々はそれがどのように働いているのかわかりません」と脳の荒廃と音楽について研究しているタフトッ医学学校の科学者ピーター・クリアニは言った。「我々はそれがどのように機能しているか、計算処理されているのかわかりません」
彼は音楽が脳の特定な部位によって管理されているのか、または神経単位の特殊な方法によって位置には関係なく脳の中にファイルされているのか、科学者たちがまだ議論をしていることを示唆した。

「最近の研究では脳の右側がメロディーに関することの大部分を、左側がリズムを関することを行うことが示されたようにみられるが、それらを関係づける組織については広く議論を呼ぶところのものです」とボストンのべス・イスラエル・ディーコネス医学センターの音楽と神経研究所の理事ゴットフィールド・シュラウ博士は言った。
「研究者たちの間では、脳のどこでその他の多くのことが起こっているのか、多数の意見の一致を見ていません」とシュラウ博士は言った。「たとえば音の高低を整える過程をどこが本当におこなっているのか、ハーモニーを生じるようどこが実際おこなっているのかということなどは・・・」
 スルタノフがピアノの前に座ったとき、いくつかの音楽的機能は甦り、脳はそれ自体の力で治りつつあった。実際、彼は知っているいくつかの作品を弾くことが出来たし、必要最小限の形ではあるが、さらに耳から学び続けて新しい作品を加え弾くことが出来た。
博士たちは練習と演奏によって、失った場所が甦るよう脳をうまく働かせることが出来ると確信した。

アメリカ・ザ・ビューティフル

デース・スルタノフはフォートワースのコンヴェンションセンターの広い舞踏会場の真ん中に夫の車椅子を押していった。そこには1000人以上の人々が彼の音楽演奏を聴くことなどなんら期待もせずにいた。彼らはアメリカの市民権を得る宣誓のために来ていたのだ。それはスルタノフ夫婦が脳卒中が起きる前からずっと夢見ていたことだった。数ヶ月前、彼は市民権取得のテストを通るためにいくつかの質問に指のジェスチャーでイエスまたはノーと答えていた。彼らはこの人生の一里塚をすべて印象深いものにする方法として音楽演奏をすることを決めていた。
2週間前の2004年の感謝祭の日(11月第4木曜日)に彼らは宣誓式で演奏する許可をもらっていた。
 「アレクセイは一連の脳卒中により、左半身不随になりました」とアメリカ合衆国最高主席判事チャールズ・ブレイルは群衆に向け語りかけ、彼らの演奏を紹介した。
まえもって彼の許可の決断は下されていた。デースは携帯用電子キーボードのスイッチを入れ二人で「美しいアメリカ」を合奏し始めた。彼女の主和音とブンチャカ鳴るリズムトラックの助けをかりてスルタノフは右手で旋律の単純な音を弾いた。
車椅子の細い穴にアメリカの旗を挿し、赤いシャツを着て、スルタノフは喜びにあふれ、彼のコンサートために出来る限り大勢集めた聴衆の前で演奏していた。
演奏の間中観客はざわついた。何人かの個人は「星条旗よ永遠なれ」の演奏者と国旗の色をまとったその妻を見ようとソロソロと立ち上がったし、ビデオカメラを持った幾人かはもっとよく撮ろうと跳ね上がった。デースとアレクセイが初めの曲を弾き終わる前にすでに宣誓のことで家を取り巻いたTVレポーターの一団は、観客席の前をフラッシュライトをスルタノフに浴びせながら群れをなして動いていた。
ファイザル・スルタノフ(この儀式のためにモスクワから飛んできていた父)は彼の息子のためのビデオカメラを引きずって歩いた。涙がデースの顔を流れ落ちた。

二人が最後の和音を叩くと会場はスタンディングオーヴェーションと賞賛と声援と歓声に揺らいだ。しかし何一つ理学療法士のドナ・ウィットンの喜びにあふれた拍手に勝るものはなかった。スルタノフにもう一度ピアノを弾くように強く勧め、もう一度ステージに立てたら必ず最前列席の真ん中で見守っていると約束したドナ・ウィットンに・・・・。
そうだ、それは15年前クライバーン国際ピアノコンクールでスルタノフが金メダルを獲得して、割れるような歓声で崩壊させた建物のちょうど同じ場所だった。
 TVレポーターたちが夜のローカルニュースのためにスルタノフのインタヴューに動き回っている間中、ピアニストは右手を上げてゆっくりと振っていた。視聴者にはかっての勝利の再開にすぎなかったかも知れないが個人的には画期的な勝利であったのだ。 彼はまだ群衆を動かすことが出来た。

努力の終結

市民権祝賀行事の喜びに満ちた演奏の後に続く数ヶ月、デースとスルタノフは介護施設や病院をまわった。彼らはクラシックの演目をひろげ、ポピュラー曲の演目も量を増やしていった。例えばスコット・ジョプリンの「メープルリーフ・ラグ」とか大勢の群衆が喜ぶ「ディープ・イン・ザ・ハート・オブ・テキサス」ようなものとかを。

休暇の間、彼らは南に五時間ほどのところにあるガルベストンにしばしばドライヴした。新鮮な湾のそよ風がスルタノフのアレルギーの特効薬だった。二人は貝殻を集めたり、水しぶきを上げたり、いつか海岸に大きな家を買いましょうと夢見たりした。
 この年の6月28日デースの母親ベニ―タ・アベルが毎年一回の恒例の訪問でラトビアのリガからフォートワースに着いた。その夜は三種類のステーキでバーベキューをした。アレクセイはますますよく動くようになった右手を使って火の上で肉をひっくり返した。
次の日豪華な朝食の後、デースはアレクセイを地元のYMCAに泳ぎに連れて行った。その夜みんなで居間に集まって「The Real Gilligan's Island」の最終回を見た。スルタノフはテレビの実録番組の流れに従うのが好きだった。なぜかというと彼は誰が25万ドルの賞金を勝ち取るのか見るまで待つことが出来ないからよとデースは言った。夜10時前にデースはスルタノフをベッドに寝かせ、明日は暑くならないうちに近くの湖に行くつもりだから朝早いけれど7時に起きなければならないと注意を与えた。

朝4時半を回ったころアレクセイはベッドの中で寝苦しそうにした。そこで妻は、いつもしているように90分かそれ以上かけて寝心地がいいように位置を変えてあげた。それから彼女は眼を閉じ、9時前に寝過ごしたことに驚いて起きるまで眼を覚まさなかった。
「アリョーシャ、起きて!湖に行かなくちゃ」彼女は夫に言った。しかし答えはなかった。
彼女は手を伸ばして夫に触れた。しかしやはり答えは何も無かった。
彼女は彼が息をしていないのに気づいた。

「ママ!ママ!」彼女は叫んだ。
彼女の母親は庭に行こうとしていたが、家の中に走りこんだ。
彼女の母が寝室に着いてみると、スルタノフはベッドの中で意識を喪失して横たわり、彼の背後でデースが彼の頭をひざの間に抱えて胸を掌で押しながら受話器を耳に当てていた。

「救急車をよんでください!」午前9時25分、911番の交換手に彼女は急き込んで言った。
「夫が息をしていないのです。顔色も青くなってしまって。わたしが起きたとき、もう息をしていないんです!」

911番の交換手は彼女に住所を聞き、彼を床に寝かせて応急処置(CPR)をするよう教えた。デースは彼の脇を抱えて母親は足を持って二人の女性たちは彼の体をベッドから木の床に下ろした。
デースは唇に口を当て肺に息を吹き込んだが何の反応も無かった。胸に耳を押し当ててみたが鼓動は聞こえなかった。
「彼は穏やかな顔して眼を閉じていました。」と彼女は言った。

数分後救急救命士が到着し、脈拍をチェックしたが全くなかった。「救命士さんたちは胸を1、2回押しました。そしてもう手遅れですと言いました・・」とデースはその時のことを語った。午前9時35分、彼女の夫は世を去った。救急救命士たちは彼女に夫の死を告げた。

外に救急車が準備された状態で停まっていることが広まり、近所の人や友達が家の中に入って来始めた。デースと母親は呆然として彼らの膝の上に抱きかかえられたままでいた。
「全く打ちのめされた様子でした。」とスルタノフの脳神経外科医の妻、シェリー・クレイマーは言った。救急救命士たちはスルタノフの体に薄い青い布をかけた。午前11時30分頃クレイマー医師が着いたときスルタノフはすでに死後硬直の段階にあった。クレイマーは死亡証明書に死因は4時半から9時までの間の心肺停止によると書き込んだ。また続けて心肺停止は脳の機能悪化によるものと書いた。

このことは彼の脳卒中は脳機能へダメージをあたえたが、また心拍や呼吸機能の規則的な働きをおびやかしたのだろうということを意味した。
なぜスルタノフが死んだか正確にわかる方法は無いだろう。たとえ検死解剖してその死因をもっと明らかにしようとしてもとクレイマーは付け加えて言った。
クレイマーの意見に従えば、過食症は彼の生涯を困難にさせた致命的な脳卒中を誘引したが、ピアニストに死を与えたなかった。彼は健康な状態に向かっていた。かれはまさに眠るように死んだとクレイマー医師は言った。医療検査官の事務所で諮問を受けた後デースとクレイマーは検死解剖は行わないことを決めた。
 「アレクセイは多くの時間を学ぶことに費やしていた。我々は脳神経の外形は壊れ去っても回復が期待できないものでないということを知った」とクレイマーは言った。

彼の体が運び去られる前に、デースは鋏を見つけて、夫の長い茶色の編んだ髪を切り取り、彼のナイトスタンドを置く抽斗の中にしまった。
それからモスクワのスルタノフの家族に知らせるため電話をかけた。スルタノフの父親が電話に出た。デースが何が起きたか伝えるや否や、父は電話を取り落とし、モスクワのアパートの嘆き、叫ぶ声が彼女の耳を打った。
母ナタリアは寝室に入ったきり一週間そこに籠ったままだった。父ファイザルはフォートワース行きの飛行機の切符を買うため彼の最後に残ったチェロを売り、2週間後の7月2日に到着した。

それから彼女は夫が以前から望んでいたことに従って火葬した。そしてその灰を居間の棚に置き、まわりをたくさんのぬいぐるみで取り囲んだ。それは二人で集めたものだった。決して満たされなかった子供時代を象徴するものだったのだろう。
訪問客がお悔やみを言いに家を訪れたとき、デースはたびたび夫の灰で満たされたグラスを取り上げそれを抱きしめた。また夫の編んだ髪を取り出してきて顔にあて、頬ずりした。

100人を超えるファンが正式な公的追悼式(7月6日)のためフォートワースの近代美術館に集まった。有名なピアニスト、ヴァン・クライバーンや、その他のお偉方が大げさな声明文を読み上げている間中、デースは観客席の陰でそっとすすり泣いていた。彼女は宣誓式に着ていたのと同じ上がブルーの白と赤の国旗模様の服を着ていた。今度の独立記念日(7月4日)はアメリカ国民として二人の初めての日になるはずだったのだ。

追悼式の後、音楽セラピストで飛行機の操縦免許も持っているアイリーン・フンメルがデースを抱きしめて言った。彼女は、数ヶ月前スルタノフを飛行機に乗せてあげると約束したのにもう実現できなくなってしまってごめんなさいと言った。脳卒中以来スルタノフは飛行機に乗ったことがなかった。彼はもう一度飛行機に乗りたいと強く望んでいたのだ。
デースはフンメルにまだスルタノフに最後の飛行をさせてあげられると言った。

最後のゼスチャー

スルタノフと実際に仲が良かった人たち皆で個人的な追悼式をするため、8月の第1週目ガルヴェストンにドライブした。夫の遺灰を運んだデースは小さなセスナ172でフンメルと一緒にピーター・ブラウンの操縦で飛び回るのだった。
彼女は夫が最後の数ヶ月最も愛したガルベストンの海岸に遺灰を撒こうと決めていた。 8月5日の夜、彼女はガルベストンのモーテルに着いた。フォートワースの裏庭から摘んできたバラを送りやすいように12本以上に束ねて整え、フロントデスクの上に集めた。
次の朝、それはスルタノフの36歳の誕生日だったが、デースはバラの花びらを引き千切り夫の灰色の遺灰に混ぜいっぱいにし、飛行機で撒く前に、みんなが最後の思い出に見ることが出来るようにした。

午前9時、彼女はブラウンと一緒にセスナが停めてある小さな個人の飛行場に車で行きそれに乗り込み離陸の準備をした。デースはスルタノフの好きな赤に彼女が塗ったチューブを持って来ていて、それをバラの花びらと遺灰で満たした。

誰もが海岸に集まった。デースの母親を含め、エド・クレイマーとその妻シェリー、その子供たちとそれぞれの配偶者、長い友人であるベーヴェルリー・アーチバルドなどだ。
クレイマー医師は車のドアを開けて、ステレオのボリュームを目いっぱいに上げ、スルタノフが7歳のとき演奏したモーツアルトピアノ協奏曲二長調ロンドのプライベートCDを流した。それは彼の途中で切りとられてしまった目を見張るばかりのキャリアの公式なスタートだった。

それが終わると皆でアレクセイの為に「ハッピーバースデー」を歌いながら水辺を歩いた。
数分後デースの飛行機が輝く青空に現れると一団は海岸から彼女に手を振って見せた。そしてデジタルビデオカメラを高く上げて標準を合わせた。飛行機は3分後飛び去るまで400フィートの高さに低く飛び、見える範囲をくるくる旋回した。

セスナの中ではデースが外を眺めながらスルタノフの遺灰を放ることが出来るのだろうかと迷っていた。
「このことを本当にしたいのかわからない」と彼女はつぶやいた。
彼女はすすり泣きだした。涙が顔を流れ落ちた。

しかしその時、彼女は夫の存在を感じとり、決心した。

「彼がそうして欲しいとわかったの」とあとで彼女は語った。

そして慎重に窓の外に赤いチューブを持ち上げて出した。灰のふわっとした塊と赤いバラの花びらは飛行機の外に棚引き出て、青色の中に見えなくなった。
飛行機が着陸したとき、デースは空港ターミナルの女性用洗面所に駆け込んで15分以上姿を現さなかった。

彼女は落ち着きを取り戻し、パイロットと一緒に車で海岸に戻り仲間と合流した。
デースはすべての人と抱き合い彼らにこの追悼式のために持ってきた赤い大きな紙コップを手渡した。彼女はクーラーの中からシャンペンボトルを取り出し、ゆっくりと水の中に歩いて行き、ボトルのコルクを抜きコップに注ぎ、一気に飲み干した。水辺から戻って彼女はみんなにシャンペンを分けた。

「今またアレクセイは弾くことが出来るわ」
とデースは天国の彼方を見上げてやさしく言った。

「両方の手で」


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